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日本史

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2019年12月30日

堤清二と辻井喬 回想

11月も末、中軽井沢のセゾン現代美術館https://www.smma.or.jp/に行ってきた。ここへ行くのは、もう2回目。行ったのは、「闘争そしてあるいは叙情」堤清二/辻井喬オマージュ展最終章が開かれていたから。堤清二氏、あるいは辻井喬氏とは、1988年東欧へ文化ミッションでお供して以来、なぜか懇意にしていただいていたし、戦後日本の文化界における巨人だと思っているので、彼の最後の展覧会は見逃したらいけないと思ったわけ。

まあ、あの美術館は敷地、建物自体が凝りに凝った、別天地のような雰囲気を醸し出しているのだが、内部の展示もこてこての堤清二でありながら、一つの宇宙なのだ。金のある人は自分のアイデアをどこまでも広げられていいね、ということなのだが、それによって彼は一つの時代を表象する。

ま、彼は事業家としてはバブル崩壊のあおりを食らって、すっかりdiscreditされてしまったけれど、1970年代頃の日本人の生活文化、そして「文化人」たちの作り出す高級な文化、その双方に関わって、いわば戦後日本のルネッサンスを担った一人。戦後の日本人の生活スタイルは、西友、西武デパートに並べられた商品、その陳列のセンスで、大いに洗練されたものだ。

そしてセゾン現代美術館にならぶ数々の名前、そして名称――武満徹、安倍公房、谷川俊太郎、三宅一生、銀座セゾン劇場、西武美術館、シネ・ヴィヴァン等々、等々。また、彼が関わった多数のイベントのポスターがまたすごい。コピーの文言、図の意匠ともども、血がにじみ出ているような、時代の叫び(巧みに設計されたものだけれど)なのだ。

堤氏は、最後までマルクス主義へのこだわりを捨てなかった。僕が、社会主義の経済はソ連崩壊でもう駄目なことがわかったのだから、いい加減やめたらどうかと直言しても、ちょっといやそうな顔をして、立場を変えなかった。まあ、格差を縮めるという根本的なところで、信念を変えなかったのだろう。

辻井氏の方は、戦前の一高の伝統、西欧的な教養主義の最後の世代で、ダ・ヴィンチばりの万能文化人だったが、音楽の趣味にはどうも賛成できなかった。ある時、ショスタコヴィッチは20世紀最高の作曲家だと言うので――これは戦後のマルクス主義青年の定番だったのだ――、彼の音楽の大半が嫌いが僕は大いに鼻白んだことがある。

マルクス主義青年だった堤氏は、モスクワでも随分ビジネス、そして文化活動を展開し、僕も何度もお会いした。僕が住んでいた公使公邸は昔の貴族の妾の屋敷で、19世紀には錚々たる文化人をよんでサロンが催されていたらしい。僕も「サロンちゃん」という名でロシアの文化人を集めては、源氏物語の講義や日本の歌曲の小コンサートなどやっていたのだが、ある時辻井さんをメイン・ゲストにサロンちゃんを開いた。あの時の辻井さんは本当にくつろいで、嬉しそうにしていたものだ。因みにバックに流した音楽はショスタコヴィッチではなくスクリャビン。

辻井氏の詩は好きだ。でも文章の意味は通らないので(一つの文章の初めと終わりは、何の論理的つながりのないまま、ただ気分でつなげられて、奇妙な効果を生んでいる)、ムードで勝負する詩。そこがうまいのだが、彼の血液型は多分A型。几帳面過ぎたところが、行儀が良すぎてハチャメチャになれなかった理由だろう。

展示の一つに、彼の書き物机があった。大きい。ものすごく大きい。三畳くらいあるだろうか。でも、あの中でフリーなスペースはどのくらいあったのか、興味あるところ。活動的な人は、机の上にどんどん本や書類や飾りを積み上げ、実際の執務スペースはとても小さくなってしまうのだ。

セゾン現代美術館は静謐そのもの。瞑想に耽るのにいい。展示を見終わって、食堂に行く。客は誰もいない。しかし、寒いのでダウン・コートを着ていた料理人が丁寧な人で、僕が入ったら、暖房をつけてくれた。そして麻婆豆腐を注文しただけなのに、何ともオリジナルで凝ったマーボー豆腐でありました。無印良品的とでもいうのか。あの料理人、ひょっとして辻井邸の料理人だったのかも。

以上は堤清二氏の文化面、辻井喬としての存在に関わることだったが、堤清二としてのビジネス、財界、政治、外交面での動きもまた活発なものがあったようだ。「ようだ」というのは、それほど話を聞いてもいないからなのだが、確か竹下登と誰か有力者の会食をアレンジしたとか、中国大使に頼まれて日中間の紛争の調停で動いたとか、ちらちら話してくれた。控え目であるようで、実はかなり自信家。僕自身については、「北方領土問題、残念でしたね。1990年代はチャンスだったのに」と、暗に力の足りなさをぐさりとやられた時がある。


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