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日本史

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2015年7月19日

国立新美術館で 夏草や、強者どもの夢のあと

(これは、6月24日発行のメルマガ「文明の万華鏡」38号に掲載した随筆の一部です)

遅まきながら、六本木の国立新美術館に初めて行ってみた。実質は大型の貸画廊と同じようなもの(もともと、国内美術関係者の要望で作られたらしく、更に昔に演劇関係者の要望で国立劇場が建設されたのと同じような経緯を経たものらしい)英語ではMuseumではなく、Art Centerになっている)だが、いろいろな美術を紹介するためには、このように常に変転していく展示の方がいいのかも。
ガラス張りの館内から、平和そのものの外――芝生と茂る緑の木々を見ていると、この場所が秘めている昔のただならぬ因縁を思い出し、陳腐だが芭蕉の句を思う。夏草や、強者どもの夢のあと・・・

なぜ、強者どもなのか? このあたり、「蛇が池」とか「がま池」、そしていくつもの川が散在した水源地帯。龍土町のあたりも下がっていて、いかにも昔は池だったのではないかと思わせる。江戸時代、そこに大名屋敷がいくつもできた。国立新美術館のある六本木7丁目のあたりは宇和島藩伊達家の上屋敷(大名とその家族の居場所。江戸城に至近。)があり(その跡からは、当時の豪勢な汁具類など発掘されていて、その写真はここで見ることができるhttp://www.isehanhonten.co.jp/museum/publication/pdf/vol19.pdf#search='%E5%A4%A7%E5%90%8D%E5%B1%8B%E6%95%B7%E3%80%81%E5%85%AD%E6%9C%AC%E6%9C%A8%E4%B8%83%E4%B8%81%E7%9B%AE')、明治になるとここは、首都防衛のための陸軍歩兵第3連隊の兵営となる。その立派な建物は戦後も残り、東大の生産技術研究所となり、僕も若い頃、その中庭で何も知らずテニスに興じたことがある。それがほぼ壊されて、今の美術館になったというわけで、古い建物はほんの一部だけが残されて、美術館別館になっている。

そしてこの歩兵第3連隊こそは、外苑東通りの向こう側に駐屯していた歩兵第1連隊と語らって、首都防衛ならぬクーデター=二・二六事件を起こしたいわくつきの部隊である。歩兵第1連隊の駐屯地の方はもと長州藩の下屋敷(長州藩にとっては江戸城から最も遠い郊外の別邸のようなもの。上屋敷は現在の日比谷公園にあった。その長州藩にとっては「郊外の別邸」に当たる場所が、宇和島藩にとっては江戸城に「至近の上屋敷」であったわけで、いつも郊外の公務員「下屋敷」宿舎に住んでいた僕にとっては何か身につまされる話しである)で、戦後は米軍、その後2000年まで防衛庁で、現在はミッドタウンがそびえている。
その下を通る大江戸線というのは変わったルートで、終点の光が丘、清澄白河、途中の六本木など往時の軍施設をみごとに結んでいる。だから当時のトンネルを活用したのだという観測が絶えないのだが、その割には当時の軍関係者の証言も聞こえてこない。

いずれにしても、第1歩兵連隊と第3歩兵連隊の将校たちは、地元にあった日本最古のフランス料理屋「龍土軒」などに集まって(多分、今で言えば700円くらいのランチでもあったのだろう。もし公費でフル・コースでも食べていたのなら、貧民のためにクーデターを企てる資格などない)謀議をこらし、クーデターの挙に出て失敗した。主謀者たちが処刑された陸軍刑務所は現在のNHKのところにあって、横の坂道の脇には慰霊塔がたっている。この将校たち、純粋な革命意欲に燃えていたのだろうが、他方、口さがない人は、彼らは軍の中で最優秀者のいく参謀本部に行けず、現場司令官止まりでいることに不満を持っていたのだ、とも言う。大きな組織ではどこにでもある話で、だからこそ現代の自衛隊も、人事や兵器選定に文官の介入を阻むブラックボックスにしてしまうと、危険なことになりかねないのだ。

戦後、このあたりは米軍の根拠地となり、野戦用テントが並んでいた時代もあったらしい。その名残は今でもあって、つい最近まで外苑東通りの防衛庁の角、その薄っぺたい塀を壁にしているかのように貼りついて、Joe's Pubというバーがずっとあった。ここは米軍黒人兵Joeに恋した日本人女性が、一緒に開いたバーだそうで、Joe's Pubというとニュー・ヨークで有名なライブ・バーがあるらしいが、そことは関係ない。うらぶれたいわくありげの二階建てで、入ってみようと思っているうちに、防衛庁移転でなくなってしまった。

ところで、終戦直後の六本木はまだうらぶれた場所で、墓地が集まっていたらしい。今でも丹波谷に墓地がある。そのほとりに「金魚」というバーがあって、昔ここの現代歌舞伎のようなショー(阿国歌舞伎は女性だけでやったが、ここの歌舞伎はゲイの男だけで超現代的な舞台装置を駆使してやっていた)を見に行った時、舞台の後ろがやおら撥ね上がると、そこには墓地の無常の世界が広がっている、という演出があって、度肝を抜かれたことがある。

終戦直後、今の六本木の交差点にはドラム缶が置かれ、そこで住民が風呂につかっていた時代もあったと言う。多分、米軍兵士が駐屯していたためだろう、六本木にはニコラ・ザペッティが日本で初めて開いたピザ・ハウス「ニコラス・ピザハウス」や、イタリア料理の「キャンティ」などが店を出し、加賀まり子(厳格な家の二階の窓から、靴を手に持って屋根に脱出してやってきた)や力道山が夜な夜なたむろする。終戦直後の東京は、生きる意欲、ヤミ市、軍事物資の横流し、右翼、左翼、米軍兵士と日本人慰安婦(パンパン)、その他、その他が相入り乱れ、ロマンとドラマを醸し出していた時代だった。

まあ、支離滅裂になったが、こんなわけで、美術館から外を見て、夏草や・・・と思った次第。今では毛利分家の上屋敷のあとが六本木ヒルズ、毛利本家下屋敷のあとがミッドタウン、そして宇和島藩上屋敷のあとは新美術館で、後2者は日本陸軍、二・二六事件、そして駐留米軍と少なからぬ関係のあった地ということなのだ。

六本木ヒルズから六本木通りを渡ったあたり、新宿方向を見渡せる高台がある。夜ここに立つと、西新宿にそびえ立つ高層ビルの一群が煌々と輝き、足元の暗い墓地の森、そしてその右側に広がる龍土町、戦後日米の入り混じった混乱を象徴する六本木と、波乱万丈のロマンの舞台として最適なのだ。昔、夏の休暇の間、炎天下の六本木界隈をてくてくと随分取材して歩き回り、「焼け跡のロメオとジュリエット」のような物語を書こうと思ったものだけれど、力及ばず今まで来ている。

だから、今翻訳しているGercik女史の自伝的小説 "The Outsider"は、その遂げられなかった企ての実現なのだ。これは、東京の焼け跡やヤミ市や米軍基地を背景に展開する、ユダヤ人少女サラと日本人混血児の悲劇的なロマンなのだから。翻訳を終えつつあるところで、出版社を募集中。
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コメント

投稿者: 吉岡大二郎 | 2015年7月21日 11:55

河東様

この間の木曜会でいただいた名刺のURLを今日覗いてみて、この記事を拝見しました。
私は1972年から1983年まで、生産研と同じ敷地に在った物性研究所に大学院生、後に助手として通っていて、生研中庭のテニスコートではしょっちゅうテニスをしていました。(4つのテニスコートのうち1つは物性研のものでした。第3連隊の建物で今残っている部分は物性研が使っていた箇所で、ここに隣接したコートです。物性研の本体が在ったところには今は政策研究大学院が建ってます。)河東さんもここでテニスをしていたというので、本文とは関係ありませんが、コメントさせていただきました。

投稿者: 吉岡大二郎 | 2015年7月21日 11:58

河東様
この間の木曜会でいただいた名刺のURLを今日覗いてみて、この記事を拝見しました。
私は1972年から1983年まで、生産研と同じ敷地に在った物性研究所に大学院生、後に助手として通っていて、生研中庭のテニスコートではしょっちゅうテニスをしていました。(4つのテニスコートのうち1つは物性研のものでした。第3連隊の建物で今残っている部分は物性研が使っていた箇所で、ここに隣接したコートです。物性研の本体が在ったところには今は政策研究大学院が建ってます。)河東さんもここでテニスをしていたというので、本文とは関係ありませんが、コメントさせていただきました。

投稿者: 吉岡大二郎 | 2015年7月21日 12:01

河東様
この間の木曜会でいただいた名刺のURLを今日覗いてみて、この記事を拝見しました。
私は1972年から1983年まで、生産研と同じ敷地に在った物性研究所に大学院生、後に助手として通っていて、生研中庭のテニスコートではしょっちゅうテニスをしていました。(4つのテニスコートのうち1つは物性研のものでした。第3連隊の建物で今残っている部分は物性研が使っていた箇所で、ここに隣接したコートです。物性研の本体が在ったところには今は政策研究大学院が建ってます。)河東さんもここでテニスをしていたというので、本文とは関係ありませんが、コメントさせていただきました。

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