Japan and World Trends [日本語] 日本では自分だけの殻にこもっているのが、一番心地いい。これが個人主義だと、我々は思っています。でも、日本には皆で議論するべきことがまだ沢山あります。そして日本、アジアの将来を、世界中の人々と話し合っていかなければなりません。このブログは、日本語、英語、中国語、ロシア語でディベートができる、世界で唯一のサイトです。世界中のオピニオン・メーカー達との議論をお楽しみください。
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世界はこう変わる

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2011年10月24日

失われた意味を求めて 第8話:ヨーロッパの魅力 人間中心主義

 産業革命や国民国家成立の話になると、それはどうしてもヨーロッパの話になってしまう。だが、「ヨーロッパ」と一口に言っても様々のヨーロッパがあり、論者がいったいどの国のどういうところを想定して「ヨーロッパ」と言っているのか確かめないと、うっかり議論もできない。僕の言う「ヨーロッパ」は感性的なものだ。匂いがしてくる。ボン郊外レマゲン近辺、ライン川があたかも悠久の彼方へとゆったり流れるあたり――古代ローマ帝国はこのライン川西岸まで支配していて、今でも東岸にわたると景色はめっきり鄙びたものになる――、パリの場末の安ホテルのフロントの婆にクリーニングが遅いと文句を言ったら「あんた、何様だと思ってるんだね(たかが日本人じゃないか)!」と怒鳴り返されたこと、そのパリのエッフェル塔の近く、高架電車の走る下で青空市場が広がって、「ヨーロッパ」とは思えない生活のにおいが立ち込めている有様、デンマークの郊外の農家で静かな新年を迎えたこと、まだ冷戦の時代、スイスから車でチェコ、ポーランドを突っ切り、モスクワまで帰って行ったこと、そしてチェコやポーランドの都市にはソ連の集権性が冷たい金属のように沈澱していたけれど、そこではヨーロッパの古い匂いが息づいていたこと、などなどだ。

ヨーロッパはそこで暮らした者たちを魅する。日本の外交官の卵は外国語ができるわけではないので、働き始めてしばらくすると2,3年間の留学に出される。誰でも若い時に留学した土地は好きになるものだが、僕の同期のなかでヨーロッパに留学した者たちもそうだった。少しおおげさではないかと思えたほどだ。僕自身はアメリカに2年留学し(ソ連にも1年)、この国の実力主義と合理主義、一口で言えば社会にみなぎる自由と挑戦の風潮がいいなあと思っていたのである。
だが、その後妻の実家のデンマークに何度も旅行し、西ドイツに3年も勤務してみると、やはりヨーロッパは落ち着いて最高だなと思ったのである。夜、少し薄暗い室内の照明のなかで、日本よりも暖色系がめだつテレビで静かで知的なニュース番組が始まる。のべつまくなしに音を発しているアメリカのテレビに比べると、くつろげる。

1970年代から80年代のヨーロッパは、物質、精神両面においておそらく最高水準に達した頃だったろう。特にドイツや英国、北欧のような欧州の北半分は公共施設に塵ひとつ落ちていないという感じだったし、まだ今のようには多民族社会化していなかったので、難しい世界のなかで保護されて咲いている花園のような感じがしたものだ。
アメリカ文明はヨーロッパ文明の派生物だが、むき出しの力、マッチョを重んずる風があるし、議論の仕方も不必要なほど極論と極論をぶつけ合って(それは裁判所での検事と弁護士の言い合いに似ている)、声の大きい者が勝つ面がある。ヨーロッパはその点、力よりも知が尊重され――口では正論を言いながら裏では私利をはかったり、相手をはめるという隠微なところもあるが、それはアメリカ人でも日本人でも同じことだ――、議論の仕方もアメリカ人ほど極論には走らないことが多い(観念論を奉じて現実を無視する者もいるが、社会での主流は「バランスのとれた考え方」なのだと感ずる)。

僕が外国留学から帰って間もないころ、ある年長の元商社員と話をしたことがある。ヨーロッパ勤務の経験が長く、ロシア人を妻とするその人は、遠い目で回想しながら言った。
「河東さん、ヨーロッパはいいところです。そのいいところはね、三つあります。ひとつは合理性、ひとつは個人主義、そしてもうひとつは人道主義です。覚えていてください」。僕は合理性と個人主義についてはその通りだと思っていたし、人道主義についても多分キリスト教的な博愛主義のことでも言っているのだろうと思い、その時はあまり気に止めていなかった。

だがやっと最近、「人道主義」=ヒューマニズムの意味がわかった――ような気がする。要するに、これは他人をどうこうする博愛(humanitarian)主義のことではなく、自分という人間を判断の中心に据えるという意味での人間主義(humanism)のことだったのだ。これは、15世紀から16世紀のヨーロッパで、後にルネッサンスと呼ばれた一つの思潮にも関係する。そしてその思潮の本質は、「神のことよりも人間を基礎にすえて考える」ということ、つまり神学でものごとを判断するのではなく、人間の頭脳、論理力が命ずるがままに科学を発達させ、その成果を人間の生活を向上させるために使うという、「人間中心主義」のことである。
 
ヨーロッパやアメリカの歴史は決してきれいごとだけではなく、彼らの政治、経済も我欲そして陰謀と暴力に彩られている。だが他面では、グローバルなスタンダードとなり得る、いい意味での「人間中心主義」があったのだということは忘れないようにしたい。これなしには、産業革命でいくら豊かになっても、いったい何のためだということになるだろう。これは、民主主義を受け入れることなしに、自分たちには自分たちなりの発展の道があると主張する中国などにも十分吟味してほしいことである。

コメント

投稿者: 国内即発 直営店 アウトレ&#1 | 2015年11月 6日 21:26

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