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2011年8月21日

NATOとユーラシアの地政学

この長い論文は、NATOとロシア、旧ソ連諸国、そして中国との関係をまとめたもの。
日本国際問題研究所が内藤昌平元在ベルギー大使を主査として昨年3月に出した、「岐路に立つNATO――米欧同盟の国際政治」の一部として書いた。他の著者の方々の論文も含めて全文は、http://www2.jiia.or.jp/pdf/resarch/h21_nato/natostudygroup20100331.pdf#search='%E5%B2%90%E8%B7%AF%E3%81%AB%E7%AB%8B%E3%81%A4NATO' で無料でご覧いただける。
僕は1979年8月から1982年9月まで、西ドイツのボンに在勤して、NATO、米欧関係を初めとするヨーロッパの政治情勢を追ったことがある。だから、この論文は僕のモスクワ、タシケントでの知見も合わせた、卒論のようなものだ。

注の多い論文をどうやってブログに載せるか今回勉強したので、アップしておく。

はじめに
戦後の欧州政治は、①ドイツの無害化、②ソ連の脅威防止、③米軍を欧州に引き止める一方で、欧州の独自性も維持する、この3点をめぐって展開してきた。それは、NATO初代事務総長イスメイが言ったとされる、「Keep the Americans in, the Russians out, and the Germans down 」という言葉に見事に集約されている。

NATOだけではなく、EUもこの3点を念頭に作られてきたのであり、戦後の欧州は統合とか超国家とかの高邁な理想や上記の3点が、主要国の内政上の争いで様々に絡み合い、利用、悪用され、数度の深刻な挫折を経ながら、何とか今日までたどりついたのである。

  だがドイツがEUに緊密に組み込まれたこと、そしてソ連が崩壊したことは欧州政治、なかんずくNATOの性格を大きく変えた。NATOの正面にそびえていたソ連は突如消えうせ、眼前にはユーラシアという果てしない大地が現れて、これにどのように関わるかNATOは未だ模索中なのである。

もっとも、08年8月のグルジア戦争によって、これ以上のNATO拡大はロシアとの武力紛争を起こす危険性があることが明らかになったし、アフガニスタンでのNATO諸国の苦戦と国内世論の反発は、NATOの活動範囲を拡大する上での限界を明らかにしている。また米国のオバマ政権は民主政体の普及をブッシュ政権ほど急いでいるわけではなく、この面からもNATO拡大の動きはひとまず休止したと言えよう。

ヨーロッパ諸民族の観点からは、コーカサス以東の地域はもともとヨーロッパとはみなされていない。そこは「NATOではなくEUが関与するべき地域」[1]――つまり血を流してでも守るべき同胞の地なのではなくただ経済的利益の獲得をめざすべき地域――なのである。

別の言葉で言えば、ロシアにとってはNATOは軍事上のファクターで、その軍事計画にはNATO兵力への対処が含まれるが、アゼルバイジャン以東の旧ソ連諸国、そして中国、モンゴルにとっては、NATOは軍事上のファクターと言うよりも政治上の要素なのである。

つまりNATOという大きな塊は、たとえユーラシア大陸東部に直接軍事的関与することはなくとも、ロシア、中国等との政治的関係の密接度を操作することによってユーラシア大陸全体の力のバランスを変えることができる。

日本に対してNATOが持つ意味の中で、最大のものはおそらくこの要因だろう。日本はNATOという「シンボル」との関係を操作することで、自分の周辺地域で好ましい地位を確保しやすくなるのである。

マケイン米国大統領候補等が唱えた"League of Democracies"は、民主主義の価値観を共有する諸国が共同して世界の紛争に対処することを予定し、その中ではNATOは主要な柱として意識されていたが、イラク進攻の失敗を見たばかりの世界ではこの種のアイデアは通りにくく、現にオバマ政権は異文明とも協調と話し合いによって安定・バランスを維持する方向の政策を打ち出している。この面からも、NATOについては当面その軍事力よりも政治バランスに及ぼす影響の方に着目していくべきだろう。

結論が先になったが以下、NATOとソ連・ロシアとの間の関係の変遷を振り返るとともに、中国・中央アジアとの関係の現状を概観し、最後に結論を導くこととしたい。

1.NATOとソ連・ロシアの関係
(1)終戦直後、西欧の安全保障体制は何より「ドイツの復活に対処する」ことを念頭に作られた[2]。だが米ソ関係が急速に悪化したために、西欧の安全保障体制は「ソ連の進攻を防ぐ」ことを眼目に急カーブを切ったばかりか、そこに旧敵国ドイツの軍隊を柱の一つとして組み込んだ。これがNATOである。

ソ連はベルリン封鎖等の強硬手段、全欧安保会議開催提案[3]等の懐柔手段を駆使してNATO成立・発展を妨害した。また西ドイツの中にも野党SPD(社会民主党)等、「NATO加盟はドイツの東西分裂を恒久化するものだ」との立場からこれに反対する動きも強かった。しかしSPDも70年代を通じて政権を担当したこともあり、NATOに対する支持は確固たるものとなっていった。1979年、与党内、国内の強い反対を押し切って、ソ連の中距離核ミサイルSS20に対抗するパーシング2ミサイルの配備を決めたのはSPDのシュミット政権である。

(2)1980年代まで、西欧諸国がソ連から受けていた軍事的風圧には非常に大きなものがあった。通常兵力ではソ連がかなりの優位を誇り[4]、「両独国境からドーバー海峡のダンケルクまでソ連戦車軍団は一瀉千里、1週間で到達するだろう」との見積もりが大げさに喧伝されていた。そしてこの通常兵力の劣位を補うために、西独にはNATO軍の戦術核兵器が多数配備され、数は減ったものの現在に及んでいるのである[5]。

(3)西側とソ連の関係は、対立だけではなく「緊張緩和」も伴う、硬軟ないまぜたものであった。1970年代の緊張緩和はソ連の平和攻勢に西側が部分的に応ずる、という基本構図であったが[6]、その中で西側もソ連から取れるものは取っている。たとえば長年のソ連の呼びかけに応ずる形で1975年、ヘルシンキで全欧安全保障協力会議(CSCE。現在はOSCE)が開かれたが、NATO側はその前の1973年からワルシャワ条約機構と通常兵力削減交渉(MBFR)を開始している。またCSCE首脳会議において西側が、情報の交流の自由化につきソ連の言質を取ったことは、その後ソ連体制が内部から崩壊するのを大きく促進することとなった。

(4)ソ連陣営崩壊・ドイツ再統一・冷戦終結・ソ連崩壊
1985年ソ連ではゴルバチョフが書記長となり、ペレストロイカ政策を開始する。それは当時起きた原油価格暴落を受け、原油輸出依存のソ連経済を再活性化させようとする試みでもあった。

右政策の環境醸成のため、彼は東欧諸国におけるリベラルな政策を容認したばかりかむしろこれを煽り、これら諸国の社会を流動化・不安定化させた。当時、東欧諸国では指導者の老齢化が軒並み政策が硬直化していたから、ソ連の姿勢を見てとった国民が不満を表面化させ、これら指導者の力を大きく低下させた。

その結果、東欧諸国では1989年の秋、連鎖反応的に革命的な政権交代が起こったが、ソ連はこれに介入しなかった。1989年5月、ハンガリーがオーストリアとの国境を開放し、そこから東ドイツの観光客が西側に流出する事件をきっかけに、東ドイツ国内の不満が大きく表面化して、同年11月9日には東ベルリン市民の圧力の下でベルリンの壁が「崩壊」(往来の自由化)する。ベルリンの壁こそは戦後欧州における東西対立、冷戦の矛盾が集約された活断層とも言えるものであり、これが崩れたことは冷戦の終結を意味した。

その後東ドイツでは政権が相次いで代わったが、遂に何者も統治能力を回復できず、ソ連は介入する意欲も力もなかった。再統一が残った唯一の選択肢となった。当時、西側との交渉に当たったソ連外務省タラセンコ政策企画局長が、その後筆者に述べたところでは、「ドイツの再統一はもはや防ぐことのできない現実であり、ソ連側としては国内保守派をどうやって抑えつつ再統一を実現するか、そしてその中から如何に多くの代償を西側から引き出すか、ドイツ統一が将来ソ連の安全保障にとって危険な要因となることを如何にヘッジしておくか」ということが念頭にあったが、西側交渉者との間では深い信頼・共感関係が成立していたという。

ドイツ再統一をもって、東方外交から始まる西ドイツの「柔軟な対ソ外交の成果」とする向きがある。これは結果論である。東方外交は、米国を初め西側が対ソ・デタントに乗り出したため、西独もやむなく追随を迫られた結果である。

ゴルバチョフのペレストロイカ政策を当時の西ドイツの外相ゲンシャーが「歴史的チャンス」と呼び、ソ連との関係を大いに推進する動きに出たことをもって、西独外交の先見性を示すものとする向きもある。これも結果論である。

東欧諸国が西側になだれを打ったのは西独外交のおかげと言うよりも、ソ連からの締め付けが弱くなったので、東欧諸国が彼らにとっての本来の文明圏に回帰しただけである[7]。もっとも、その時に西ドイツが強い反ソ的姿勢を取っていれば、それを口実に東欧諸国の指導部は国内を締め付け、あれほど簡単には倒れなかっただろうが。

なお、ドイツの再統一によってかつての大国ドイツが復活してEU統合に抵抗したり、米軍を大西洋の彼岸へ追いやったりする可能性もあったわけだが、実際にはこうしたことは起こらなかった。ドイツは東独の「消化」と、EUの東方への拡大で手一杯となり、EU,NATOの枠内にとどまっている。

(5)エリツィン期ロシアの西側への接近

エリツィンは、共産主義との決別、自由と民主主義、市場経済を標榜して大衆の期待を掻き立て、それによって国民的支持を得た政治家である。彼は、91年12月にソ連が崩壊して名実ともにロシアの大統領となると、経済支援をも求めて欧米諸国に活発な外交を展開した。彼は正式手続きこそ取らなかったものの、「ロシアはNATOに加盟してもいい」とマスコミに公言した。

西側は、その可能性の範囲内で最大限のロシア支援を行ったが、民主主義を口では標榜しつつも実際は上からは権威主義、下からは依存体質を強く残すロシアに対する違和感・警戒感は強く、経済移民が殺到することも恐れてその対応は及び腰であった。ロシアのNATO加盟はマスコミで議論されただけであるが、「ロシアのNATO加盟はNATOの意味を崩壊させる」ということでほぼ意見の一致が見られていた。後にプーチン大統領はこれを、「西側は当時十分助けてくれず、ロシアを軽侮した」という誇張した表現で言い立て、ナショナリズムを煽ったのである。

(6)NATOの拡大開始とロシアとの摩擦

冷戦終結後、NATOが旧東欧・中欧諸国に拡大していく経緯については巻頭の内藤論文を参照願いたい。一般に大帝国が崩壊すると、その周縁部では「力の真空」が生じやすい。それは周辺列強の勢力争いを招き、第1次大戦の際のセルビアのように戦争の原因になったりするのである。また旧帝国の周縁部に異民族が居住していれば、彼らは旧宗主国が再び締め付けを強めてくることを恐れて、安全保障を外部の強国に求めようとする。これが、旧ソ連崩壊後の中東欧、バルト三国で起きたことである。これら諸国は民族的・文明的には西欧の一員であり、EU、NATOへの加盟を求めるのは自然な成り行きだったし、またそれは米国等に散在するディアスポラのロビー活動によっても促進されたのだろう。

ロシアは当初これらの動きを座視していたが、1999年ユーゴスラビアをNATOが爆撃した頃から、「旧ソ連領のバルト三国」をNATOに編入することはドイツ統一の際の口約束に反するとして猛然と反発し始めた。西側の圧力が本来のロシアの勢力圏に及ぶにつれ、堪忍袋の緒が切れた趣があった。それは、ロシアが「冷戦で敗戦した」ことの意味を十分納得していなかったこともあろうが、西側がロシアを殊更無視し続けたことも原因であったろう。

(7)ウクライナ、グルジアのNATO加盟準備をめぐるロシアとの紛争

ロシアの反発は2008年8月のグルジア戦争で、その頂点に達した。

ウクライナではNATO加盟は世論の30%弱の支持しか受けていないが、ユシェンコ政権はこれを野党との対立軸に仕立て上げ、親欧的なウクライナ西部での支持を掘り起こそうとした。グルジアではサカシヴィリ政権が、国内の分離派地域アプハジアと南オセチアの制圧を公約とし、これを実現するために不可欠だとして、NATO加盟を推進した。

これに対して西欧諸国は後ろ向きであったが[8]、08年4月ブカレストでのNATO首脳会議で米国の圧力に屈し、同年12月の外相会議には加盟のためのMAP(Membership Action Plan)を作成することをほぼ認めさせられた。

08年8月のグルジア戦争にあたっては、サカシヴィリ大統領は米国の了解を得ずに攻撃を開始したため、同大統領は西側との信頼関係を傷つけた。他方ウクライナでもNATO加盟派のユシェンコ大統領とチモシェンコ首相が内輪もめを始めた。ロシアから輸入する天然ガス販売の利権を誰が握るかが争点になったものと思われるが、これによってウクライナはその不安定性を西側に大きく印象付けた。

このため08年12月のNATO外相会議においては、ウクライナ、グルジア両国のNATO加盟に向けてのMAPは採択されず、代わってANP(Annual National Plan)なるものが採択された。米国はこれに加えてグルジアと「戦略パートナーシップ」に関する宣言に署名した。こうしてグルジアについては欧州、米国双方の面子をつぶさない処理が行われているが、今後の動向はサカシヴィリ政権に大きくかかっている。

オバマ政権は経済回復を当面の至上課題とし、国際関係では民主化を性急に進めることなく、諸国との協調と協力によって安定を維持し、経済発展をはかって社会の改善をはかる政策に転じている。NATOの拡大は当面、行われないであろう。

2.NATOが対ロ関係で抱える現下の問題
(1)未だに互いの距離感をはかりかねるNATOとロシア

ソ連が崩壊して約20年にもなるが、旧敵同士だったNATOとロシアは未だに互いの距離感をはかりかねている。互いの間の共通性を認め友人として認め合う者達と[9]、その逆の者達が双方ともにいるために、互いの関係は一進一退である[10]。

ドイツ一国をとってみても、40%に達する天然ガス面での対ロ依存を良しとし、新しいパイプラインを作ってさらに依存性を高めることを躊躇わない勢力がいるかと思えば、これをロシアと癒着した行いと見てトルクメニスタンからの天然ガス輸入に強い期待を寄せる者がいるという状況である。

ロシアは文明的には西欧に近く、ロシアとNATOが対テロ闘争や世界の安定維持を旗印に提携することは十分可能なのだが、そのような事態は早期には実現するまい。

(2)アフガニスタン

09年初頭現在、NATOとロシアの間で前向きの協力が可能な最大の分野は[11]、アフガニスタンの安定化支援、テロとの戦いへの支援である。2001年9月11日事件の直後プーチン大統領は米国の反テロ闘争に最大限の協力を行う用意がある旨を早々に申し入れ、中央アジア諸国が米軍に基地を提供することも黙認したが、その後東欧へのミサイル防御設備配置、コソヴォの独立等で西側から煮え湯を飲まされ、反発を強めた。

しかし2008年初頭頃から、事態は変わり始めた。パキスタン経由アフガニスタンへの物資運搬路がタリバンの攻撃に会うことが多くなったため、米国およびNATOは鉄路ロシア、カザフスタン・ウズベキスタン経由で「非軍事物資」をアフガニスタンへ搬入するための交渉を開始した。08年4月ブカレストのNATO首脳会議ではプーチン大統領、ウズベキスタンのカリモフ大統領とも、右運輸計画に対して基本的同意を公言した[12]。

(3)「集団安全保障条約機構」(CSTO)とNATOの関係

これまでアフガニスタン情勢は、中央アジアへの以前の影響力を回復したいロシアにとって、アキレス腱のような存在であった。アフガニスタンと国境を接するタジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンにとっては、アフガニスタンの安定化はその安全保障に直接響く切実な問題である[13]。ところが1979年のアフガニスタン侵攻で、米国のベトナム戦争と同様のトラウマを負ったロシアは、「アフガニスタンには絶対兵を送らない」ことを公約として、その安定化をNATO、米軍に委ねてきた。そのために、中央アジアに対するロシアの発言力は限定される結果となった。

石油価格高騰で資金に余裕の出た近年のロシアは、ワルシャワ条約機構の後身として作られながらも殆ど名だけの存在だった「集団安全保障条約機構」(CSTO)[14]の強化を図り始めている。具体的にはロシアは「有事即応展開国際部隊」をCSTOに設けようとして、09年1月にはカザフスタン等の同意も取り付けた。ロシアとしては、中央アジア諸国がアフガニスタンから攻撃された場合には、この部隊を現場に急派することを想定しているのだろう。

権威主義的体質の強い中央アジア諸国は、以前から欧米の資金には期待しつつも、「民主化」を口実とした内政干渉を極度に恐れ、ウズベキスタンなどは2005年米軍をハナバード空軍基地から駆逐すると同時に、米国のNPOを国内から締め出した。ロシアは民主化を強要することはないが、08年8月のグルジア戦争でロシアを明確に支持した旧ソ連諸国がなかったことにもわかるように、これら諸国はロシアの兵力が米国とはまた別の意味の内政干渉をしかねないことを知っている。中央アジア諸国はロシアの言いなりの存在ではない。彼らは国際関係の客体ではなく主体であり、列強の間を泳ぎまわっては最大限の利益を引き出そうと努めている。上記のCSTO有事即応国際展開部隊にしても、右部隊のために自国部隊を簡単に差し出すことはないだろう。

軍事面でのロシアへの接近は安価なロシア製武器の購入を容易にするが、ロシア国内のインフレでそのメリットは薄れてきたものと思われるし、重厚長大な本格戦時代の編成・戦法しか教えてくれないロシア軍よりは、軽装少人数の欧米型軍隊との協力を求める声は、中央アジア各国軍の若手の中に増えている。

ロシアはNATOにもCSTOの存在を何とか認めさせるべく、数年にわたって努めてきた。アフガニスタンへのNATO非軍事物資運搬についても交渉の窓口をCSTOにせんとしたりしたが、NATO側は一貫してCSTOを相手にしていない。そして当面、このような状況は続いていくだろう。CSTOが急速に充実する見通しはないし、充実を助けたりはしたくないからである。

(4)NATO、ロシア、中国の間の三つ巴バランス・ゲームと上海協力機構(SCO)

上海協力機構は1996年、中ソの間の国境をCIS諸国と中国の間で維持することを目的に作られた「上海ファイブ」を前身とする。その後、中ロ両国の対米関係が緊張した時期があったため、中ロ両国が提携して中央アジアという勢力範囲を守るものとして改組されて2001年6月に上海協力機構となったのである。米国に対しての案山子としてのSCOの性格は、2005年行われた中ロ共同軍事演習でその頂点を迎えた。

しかしその後は米中関係の緊密化が急速に進んだため、中央アジアにおける中ロの関係は相対的なものとなっていった。SCOを軍事機構化せんとするロシアに対して中国は、「対テロ」軍事演習以上には応じていない。中国には中央アジアに対する領土的・政治的野心はあまり感じられず[15]、この面で中ロ対立が起こる可能性は小さいが、トルクメニスタンの天然ガスを中国がパイプラインで輸入する動きには、ロシアが陰に陽に抵抗している。

上海協力機構は近年、マスコミに登場することが多くなったが、中国にとってその使用価値が低下したためだろうか、経済開発、反テロ闘争等において目立った進展は示していない。

ただ興味深いことは、NATO事務局が中国からの働きかけを受けてSCOとの交流を検討している節が見えることである。これが実現すれば、次の要因に鑑みて中国がロシアを牽制する手段として機能することになろう。

中国は2000年頃まではロシアとNATOの間の接近に極度に神経質で、右接近は「NATOを中国国境まで持ってくる」ものだとして恐れていた。しかし米国との関係を緊密化させ、その巨大な市場が持つ魅力で西欧を屈せしめた現在の中国にとっては、NATOはおそらく恐れるべき対象よりも使うべき対象となったのだろう。中国はNATOと交流しているが、これと直接関係を深めてロシアを不必要に警戒させるよりも、SCOを当て馬にしてNATOとの関係強化をはかり、それによってロシアとのバランスを取ろうとしているのかもしれない。

かかる動きに対しては、日本も同じ方向で動けばいいのである。日本は既に上海協力機構事務局とはコンタクトを持っているし、「中央アジア+日本」という独自のフォーラムも持っている。ロシア、中国、中央アジア諸国、NATO、このそれぞれを独立したプレーヤーとして扱い、その間におけるバランスを追及していけばいいのである。

つまりここではNATOとかSCOが外交ゲーム上の一種のシンボルとして扱われており、これとの関係を操ることでユーラシアでのパワー・ゲームに加わることができるのである。

(5)その他の問題

その他には、ポーランド、チェコへの米国MD(ミサイル撃墜用ミサイル及びレーダー)の配備問題がある。これはNATOではなく米国の問題なのであるが、米国が念頭に置いているのはイランのミサイルなどよりも四川省の基地から米国東海岸へ向けて発射される中国のICBMかもしれず、それゆえに本件をめぐっては不透明なものの言い方に徹しているのかもしれない。地球儀で見ればわかるように、その軌道はみごとにポーランド、チェコ上空を通るのである。

但しNATO諸国にとっては、ポーランド、チェコにMDが配備されるが故にロシアのミサイルの標的にされかねないという問題がある。またオバマ政権が今後、右MDについてロシアと交渉する際、かねてドイツ政府の抵抗で撤退できないでいるドイツ配備の戦術核削減、あるいは完全撤廃をMDを残すための当て馬とするかもしれず、そこにおいてはNATOと接点が出てくる。

またCFE(かつてのMBFR)取り決めは、かつてデタントの主要な成果として喧伝されていたが、ソ連崩壊で東欧・バルト諸国の兵力が西側に移ったことで、その合意はロシアに不利なものとなっていた。1999年、条約の修正で合意したが、ロシア側は新たにNATOに加盟した国の批准を要求、欧米はロシアが2000年に約束したモルドバとグルジアからの軍撤退を条件として主張し、対立が続いた。その対立が続いたまま08年8月のグルジア戦争となり、アプハジアでのロシア軍駐留が恒常化することとなったため、CFE改定合意交渉は当面棚上げの状態にある。

おわりに
以上のように、旧ソ連地域及び以東との関わり方について、NATOの方針は未だ定まったものとは言えない。おそらくアフガニスタンにおけるNATOの軍事的行動は唯一の例外としてとどまり、この地域におけるNATOは軍事よりも政治バランスにかかわるものとして推移していくのだろう。

つまり日本の対ロ、対中、対中央アジア外交においてもNATOは、軍事的要素としてよりは政治的な力のバランスを左右するものとして意味を持つのだろう。軍事協力ができないからNATOと交流する意味がない、というのは、狭い官僚的な議論である。米国の力が一時的にであれ相対化した現在、日本も外交におけるシンボル、パーセプションを最大限に利用してバランス外交ができるようにならなければならず、その意味でNATOとの交流・協力は益々進めた方がいいのである。

  

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脚注

[1] 08年11月、ブラッセルでのNATO関係者の言葉。

[2]NATOの目的の変化:対独から対ソへ
 1948年頃までの欧州には、「ドイツは敵、ソ連は同盟国」という意識が強かった。ドイツを破ったのはソ連軍だから、これは当然の感覚である。そのため1947年3月には英仏相互援助条約が結ばれたし、1948年3月には英、仏、ベネルックス三国がブラッセル条約を結んだ。これは、国防、経済、社会、文化諸方面についての協力を定めたものだったが、その本質は、ドイツの復活を恐れる国々に、戦前までの超大国英国が安全を保証したものと言えよう。

ブラッセル条約締結当時、東西冷戦が厳しくなっていた。1948年6月にはソ連がベルリンを封鎖し(ソ連は、西独を対ソ連防衛網に引き込もうとする英国の意図に気がついて、西独を永世中立国化しようとしたのであろう)、米軍は1年間にわたって西ベルリンへの大空輸作戦を行う。これは西側における対ソ・イメージを決定的に変えた。

ここで英国のベビン外相がイニシャティブを取り、米国にNATOの結成を持ちかけた。「米軍を欧州に保持しておく」という政策が初めて前面に出たのである。

米国はこれに直ちに応じ、1949年4月には北大西洋条約(NATO)が署名されて8月に発効するのである。ベルリン封鎖の最中だった。これは米国の立場から言えば、第2次大戦の結果生じた米軍の欧州駐留を恒久化させることによって欧州をソ連から守るとともに、それによって超大国としての米国自身の国際的地位を保全する効果も持ったものだった。

これは、1951年のサンフランシスコ講和条約と同時に発足した日米安保体制と双璧をなすアレンジメントであった。それ以来欧州(特に西独)は、安全保障については米国に大きく依存し、文明的・歴史的優越感を誇示しながらも米国の力の前にはひざまずくというアンビヴァレントな関係を続けているのである。


[3] メドベジェフ大統領の提案
ロシアのメドベジェフ大統領は2008年6月、「既存の国際機関、組織から離れて、欧州諸国が個々の国の資格で(米国も入れて)安全保障について話し合う」ための会議を開くことを提案した。これはいつものNATO弱化のための策謀だとして西側が取り上げるところとなっていない(サルコージ大統領は右首脳会議を2009年春にも開くことを提唱したが、08年12月のNATO外相会議はこれに賛成しなかった)。

筆者は、同種の全欧安保的提案は1970年代、ブレジネフの緊張緩和外交の一環として初めて出てきたものと思っていたが、実際には終戦間もなく、ドイツ問題処理の過程で既にソ連は言及していることを最近認識した。

即ち戦後、ドイツ再統一が東西間で話し合われたが、西側はまず統一を実現してから統一ドイツと連合国の間で平和条約を結ぶべしとしたのに対しソ連は、西独・東独が別個に連合国側と平和条約を交渉しそのあと統一をはかるという漠然たる提案で対抗して、結論は出なかった。

1954年1月ベルリンでの米英仏ソ4国の外相会談でソ連は、両独からの全軍隊の撤退、平和条約締結までの両独の中立、全欧(米国を除く)集団安全保障条約の締結を提案した。これが多分初めての、全欧安保構想ではないか?

この会談は失敗に終わるがその後ソ連は、「全欧安保会議に米国が参加することに反対しない」、「ソ連のNATO加盟を討議する用意がある」とまで言明して、1955年5月の西独の主権回復・NATO加盟に向けてゆさぶりをかけたのである。

[4]NATOの核保有体制
最近の日本の一部では、米国による「核の傘」の有効性を疑い独自核武装を提唱する向きも見られる。

この問題では、ドイツの例が参考となる。西独は領内へのNATO軍戦術核兵器の配備を認めると共に、その使用(ドイツ領内での)については西独、NATO軍司令部双方が合同で決定することとした(これをdual key方式と称する)。

ユーラシアと陸続きでない日本では、「戦術核」を用いる機会があるのかどうか定かでなく(戦術核兵器を使用するのは多くの場合、本土作戦において敵軍を破砕するためのものだろう)、また(爆撃機で核弾頭つき巡航ミサイルを発射することによって)大陸で使用した場合、それはむしろ「戦略核」的な意味を持ってくる。

それはそれとして、今後の検討に資するためにNATOの核保有体制をここでまとめておく。

米国は当初、核兵器は自国だけで管理しようとした。不用意に核戦争に巻き込まれるリスクを嫌ったのである。このため西欧諸国は、米国による核の傘を信用しなかった。このギャップを埋めるため、1960年には中距離核ミサイル(INF)を搭載したNATO核艦隊を創設することが米学界から提唱されたりしたが、決定的だったのは1962年のキューバ事件の生起である。これを契機として米国は、核の権限を西欧、特に英国とシェアし始めたのである。

1962年12月米英首脳会談で、「ナッソー協定」と呼ばれる合意が成立し、米英の核部隊の一部(ポラリス原潜も含め)をNATO軍に編入することを決定した(それ以前から米英は核兵器技術で協力関係にあった)。

1963年1月になると米国は、「NATO多角的核戦力」(MLF、Multilateral Force)構想を提案する。これはNATOに多国籍核艦隊を作ることを意味した。この艦隊に参加するNATO加盟国に対して米国はポラリス・ミサイルを売却する、但し核弾頭は売却しない、数カ国からなる執行委員会がこの多国籍核艦隊を管理する、当初は(速やかに建造できる)水上艦のみを対象とする、但し米国は地中海配備のポラリス潜水艦3隻を多国籍核艦隊に所属させる、というものだった。

この提案のその後については詳らかにしないが、1970年までにはポラリス原潜4隻を建造することを決定していた英国はこれにあまり乗り気でなかったらしい。多額の予算を他国の防衛のために用いることの説明が難しいからであろう。フランスは既に、独自の核戦力を保持することを決定していた。

他方、西独は乗り気で、INFを地上に配備することまで求めたらしい。これには、米国が乗らなかった。1970年代末期ソ連が、欧州への発射を念頭に置いているとしか思えない中距離核ミサイルSS-20を配備したことで、NATO諸国は「ソ連が核攻撃で欧州を脅してきても、アメリカは必ずしも守ってくれないかもしれない」との危機感を持つにいたった。そしてNATOはPershing-2という米国の中距離核ミサイルをドイツ等に配備することを決定したのである。これを西ドイツのシュミット政権は毅然として推進した。彼の与党社民党は内部分裂したし、青年層を中心に新たに現れた野党勢力「緑の党」を中心に街頭では反米・反政府デモが吹き荒れた。

しかしNATOがPershing-2配備を決定したことによりソ連は折れ、結局SS20,Pershing-2の双方をゼロとする「ゼロ・オプション」(1987年)によって、東西の間の決着はつくのである。

[5]西独への戦術核兵器配備
西独はその主権を回復したパリ協定において、核兵器の生産を禁止された。しかしその世論は日本と異なり、核兵器の配備そのものには大きな反発を示していない。ドイツは西独の時代から領内に米軍核兵器(主としていわゆる「戦術核兵器」)配備を認め、ドイツ防衛のために右を使用する際にはドイツ(あるいは西独)政府の承認をも必要とするdual key政策を取っている。

野党の社会民主党は核兵器配備反対運動を行ったが、それは市民が自分の地元への配備に反対する程度のものにしかならなかった。

米軍は当初から戦術核を西独に持ち込んでいたし、1956年には西独国防省が「生産は許されていないが、西独軍が核兵器を用いることは構わない」とする解釈を公にし、アデナウアー首相も戦術核を容認する趣旨の声明を明らかにしている。こう言っておかねば、西独軍はその領内での戦術核使用につき、何ら発言権を持てないことになりかねなかった。

それでも1957年の総選挙では核武装が大きな争点となったが、アデナウアー政権はこれを乗り切り(アデナウアーは選挙運動中は「西独は核武装しない」と約したのではあるが)、1958年3月連邦議会は核武装を容認する決議を採択した。

野党の社会民主党は、核武装はドイツの分裂の恒久化につながるとして反対を続けたが、1959年現実的路線に転換した際のBad Godesberg綱領では西独のNATO加盟を追認するとともに、西独駐留NATO軍が核兵器を保持していることを言外に是認した。

このため西独連邦軍は、オネスト・ジョン等、NATO所有の核兵器を装備することを認められた。NATOの米国人総司令官、西独双方が「引き金」を有しているいわゆるdual keyの配備形態である(dual keyというのは、米独間に限られない。英国でもかつて同様のやり方がdual keyと呼ばれていた)。

08年7月のインターナショナル・ヘラルド・トリビューンによれば、今でもケルン南方70マイルのBuchel独空軍基地に(多分最後の)戦術核が配備されている。これは小型のミサイルB61、20基で、戦闘機トーネードJBG33に装備される。トーネードは2013年から順次退役するし、後継機のユーロファイターは戦術核装備用ソケットを持っていない由。

同じ記事によれば、NATO軍核兵器保管庫は他にベルギー、イタリア、オランダ、トルコにあるが、米国は戦術核は時代遅れのものとして撤去を望んでいる由。英国からは既に04~05年に、B61が撤去されたもようである。しかしドイツ国防省の一部には、「NATOの核政策における発言権を維持するため」という曖昧な目的のためにB61の保持を主張する者もいる。その数は年々減少している。

筆者の今回の出張であるドイツ人専門家は、「ドイツの戦術核は、ポーランド、チェコに米国が配備するMDに関するロシアとの交渉において、MDを守る代わりにロシアに与える見返りとしてドイツから撤去されることになるのではないか」との見通しを述べていた。

[6] 米国がベトナム戦争終結を欲していたこと、西独でSPDが政権についたことなどが背景にあったろう。

[7] EU加盟がもたらす補助金、関税下げ等の経済的利益ももちろん、彼らの念頭にあった。

[8] ウクライナ政権は透明性に欠け、グルジア政権は権威主義的性格が強く、いずれにもガバナンスに問題がある。

[9] ロシアのいわゆるインテリと言われる者達は高い教養水準を備えているばかりでなく、西欧的な個人主義・市民社会の価値観を具備している。しかし大衆、資産家の行動様式はそれとは異なり、これに欧米が反発するためにロシアのインテリ層をも敵に回してきた。

[10]NATOとロシアは、かつてはボスニア紛争の国連KFOR(PKO)に共に参加したこともある。

またEUは現在、チャドに兵力を展開して情勢の安定化にあたっているが、ここにはロシア軍がヘリコプターを要員と共に数機派遣し、EU軍司令官の下で行動している。

近い将来、モルドヴァの沿ドニエストル地域等、CISの未解決紛争地域で解決がはかられれば、ロシア軍だけでなくEU兵力もPKOとして駐留することになるかもしれない。

[11]NATOとロシアの関係
NATOとロシアは1997年5月に"Founding Act"(FOUNDING ACT ON MUTUAL RELATIONS, COOPERATION AND SECURITY BETWEEN THE RUSSIAN FEDERATION AND THE NORTH ATLANTIC TREATY ORGANIZATION)に署名し、バルカン問題から協力を開始した(ボスニアでSFORに共同参加http://www.nato.int/docu/review/1998/9803-05.htm)。ただしバルカンにおける協力は、コソヴォをめぐる意見の不一致のため、その後停止された。

2002年にはNATO・ロシア首脳会議を開き(http://www.nato.int/docu/comm/2002/0205-rome/0205-rome.htm)、ローマ宣言を発表した。その内容は1997年のFounding Actとあまり変わらないが、反テロ、MD、海難救助などが新しい協力対象として加えられた。

アフガニスタンの麻薬取引防止についても、ロシアとの協力が進んでいる。NATO・ロシアの共催で、400名の中央アジア・アフガニスタンの関連要員をモスクワやトルコで研修させた。モスクワでは、ドモジェドヴォ空港の近くに立派な研修センターがある。

2003年には、海難救助における協力も開始した。2005年6月、カムチャツカで潜水艦事故があった際、NATOに支援の要請があり、急遽出動して人員を救った。

なおこれら協力プロジェクトのいくつかは、08年8月のグルジア戦争によっても中断しなかった。

[12] ブカレスト首脳会議でウクライナ、グルジアのNATO加盟交渉が促進されることとなったため、ロシアはその後協力実現のピッチを遅めた。09年1月にはロシアも最終的合意の意思を明らかにしたが、ウズベキスタンとの交渉の結果は未だ明らかでない。

[13] ウズベキスタン、タジキスタン、キルギスではこれまで、アフガニスタンに拠点を置くテロリスト達によって爆破・拉致事件等が起きている。

[14] 2002年創設。現在のメンバーはロシア、アルメニア、ベラルーシ、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、ウズベキスタン。

[15] 歴史的にも中国は、フェルガナ盆地以西には進出したことがない。

中国にとって中央アジアは、新彊地方のウィグル分離運動、及びチベット独立運動の温床にならず、政治的に安定していればそれでいいのだが、これに加えて、米国よりはロシアの影響下にあった方がましだという思いがあろう。

ただ中央アジアのエネルギー資源をめぐっては、中ロの利害が対立する。中央アジアのエネルギー資源を牛耳りたいロシアにとっては、中国がトルクメニスタンの天然ガス等を独自開発して輸入しようとしていることは、非常に目障りであるようだ。

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