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世界はこう変わる

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2011年8月20日

ソ連でのクーデター失敗から20年

8月19日早朝、20年前のソ連ではクーデターが起きたのだ。僕は大使館からの電話で叩き起こされ、車を運転して急いで出勤した。あれは、疾風怒濤の時代だった。人々の欲望と情熱が渦巻いていた。外部にいる者にとっては、それはロマンチックでさえあった。自由とか改革とかの言葉が、希望をもって語られていたからである。

それから20年、ロシアの情勢は灰色のままだ。ソ連は、経済の全てを国有化するという異常な体制を、専制主義で社会を抑えながら50年以上にわたって続けた国だ。民主主義・市場経済体制に移行するのだと言っても、そう簡単にはいかない。民営化のための資金は足りず、経営者も足りない。原油輸出に依存したまま、長期停滞に沈んでいる感がある。

ともあれ、20年前の心象風景はどうだったか。僕が当時のソ連を背景に書いた小説「遥かなる大地」(熊野洋の筆名で草思社から刊行。ロシア語版は2001年、モスクワのヴァグリウス社から刊行)http://www.amazon.co.jp/%E9%81%99%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%82%8B%E5%A4%A7%E5%9C%B0%E2%80%95%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%81%AE%E7%89%A9%E8%AA%9E%E3%80%88%E7%AC%AC1%E9%83%A8%E3%80%89-%E7%86%8A%E9%87%8E-%E6%B4%8B/dp/4794211481/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1313835731&sr=8-1の第1巻第22章をお目にかけたい。これはロシア文学のつもりで、モスクワ市民の目から当時の社会を描いたものだ。主人公やイリヤー。世の中をペンの力で変えたいと思って、最後は暗殺される新聞人だ。

「遥かなる大地」22章

その年の八月十九日の朝早くから,クリン近郊のイリヤーの別荘では,イリヤーと娘ユーリヤ,孫のイーゴリ,それに伯父イェゴールと伯母ヴェーラがお祭り騒ぎだった。この別荘は,イリヤーが「モスクワ・イズベスチヤ」時代に購入したもので,土地の所有権は相変わらず地元の農園にあったものの,実際はもう彼のものだった。

 「ほら,ゴーリャ。お祖父さんは屋根の上。何してる? ペンキ塗ってんの」 ユーリ
ヤはまだ口もきけないイーゴリを腕の中であやしながら,屋根の上の父を見て微笑んだ。
 「いつもお祖父さん,御仕事ばっかりで,会いに来てくれないけど,イーゴリはほら,
どんどん大きくなってまちゅよ。お祖父さんのように偉い新聞記者になるんだもん,ね」
ユーリヤは,赤ん坊の口調をまねて言う。
 別荘の中からはヴェーラ叔母が朝食の片づけをする音が聞こえ,イェゴール伯父は居間
の椅子に腰かけて,日本のビジネス・マン盛田昭夫の「メード・イン・ジャパン」を読ん
でいた。共産党の崩壊に一時落ちこんでいたイェゴールも,この頃はオーリガに刺激され
て西側のビジネスのやり方を一人で勉強し始めていた。

 「ユーリヤ,ちょっと来て手伝って。あなたのお母さんが来るのに間に合わなくなるわ」 ヴェーラ伯母が別荘のなかから大声を出した。
 「お祖母さん,あわてなくたって,電車が着くのは一時よ」
 まるで十年前のように,生活は平静で幸せだった。モスクワでは相変わらず,連邦条約締結交渉,エリツィンのロシア大統領への選出,パブロフ首相の権限拡大要求など,相い矛盾する性格の動きが続いていたが,連邦条約は合意され,エリツィンの力が伸びている今,ゴルバチョフが再び改革派ににじり寄って来た気配があった。保守派の一部に怪しい
動きはあったものの,イリヤーは「新時代」紙創刊以来の激しい情勢の動きに疲れはて,
いずれにせよ仕事は連邦条約が締結されてからということで,休暇を取り,長い間放置していた別荘の修理にとりかかっていた。

 今日は,妻のリューバが帰ってくる。別荘を昔のように綺麗にして見せてやろう。リューバ。俺たちの一生は,このくり返し。離れたり,一緒になったり。イリヤーは屋根の上で,オーロラとのマドリッドでの一夜を,ちらりと思い出す。いや,あいつのことはもう忘れた。俺のことを探るために近づいてきただけ。今日は,リューバが帰ってくるんだ。

 だが,暴力は予想しない時にやってくる。ヴェーラ伯母が大声をあげた。
 「イェゴール,おかしいわ。ちょっと聴いて。ユーリヤ、イリヤーを呼んで。イェゴール,クーデターよ!」
 
 イリヤーはペンキのバケツとともに,屋根から落ちそうになった。ぬかった,クーデタ
ーか。クリュチコフかヤゾフかグロモフかパブロフか,あるいはあのルキヤノフか。明日
は新連邦条約調印の日。そうか,そう言えば,クーデターをやるとしたら今日しかない。
ぬかった。すぐ社に行かねば。しかしリューバが来る。

 つけっ放しのラジオは,女性のアナウンサーの声を伝えていた。その声は,昔の公式テレビ・ニュース「ヴレーミャ」のように,無機的で官僚的で不吉だった。昔のソ連が戻ってきた。ブレジネフ,チェルネンコ,延々たる安定の中の怠惰と偽善と凡庸。また手も足も出ない生活に戻るのか。

――「不信と無関心と絶望が,初めの熱意と希望にとって代わりました。国家は事実上
,無統制になりました。市場経済への無秩序で無組織な移行が,地方,官庁,個人のエゴイズムの爆発を喚起しました。その結果,国民の生活水準の急激な低下と,ヤミ取引とヤ
ミ経済の繁栄が生起したのです」
 「誰だ。クーデターをやったのは誰だ。ゴルバチョフはどうなった?」 
 「しっ,黙って」
――「国家は暴力と無法の深淵にはまりつつあります。これまでに,これほどの規模の
性と暴力の宣伝が行われたことはありません」
 「無法に不法をもって代える,ってわけね」 ユーリヤが言った。
――「ソ連の人間はつい昨日まで,自分を力があり尊敬される国家の市民であると見な
してきました。しかし今や,しばしば二流国民になってしまったのです。ソ連人の誇りと
名誉を完全にとり戻さなければなりません」
 「何もないのにどうやって? どうやってやるんだ。銃剣でか?!」イリヤーが叫ぶ。
――「われわれはソ連の全国民に対し,国に対する責任感を高め,非常事態委員会にで
きるかぎりの支援を与え,国家を危機から脱出させる努力を行うよう呼びかけます」
電話が鳴りだした。チェ,今頃かけてきやがって。社の当直の奴,いったい何をしてやがったんだ。

 一時間後,イリヤーは車を運転してレニングラード街道からモスクワへ入った。途中,
警官による検問が数箇所あり,戦車や装甲車や兵員輸送車の列をいくつか追い越したものの,街の表情はいつもと変わることなく,モスクワ運河の港公園の脇では初老の老人がジ
ョッギングをし,街道では自転車のロード・レースの練習が行われていた。シェレメーチ
エボ空港に着いた客を乗せているのか,外交官,外国企業,そして最近増えた合弁企業の
黄色いナンバーをつけた車がいつものように,イリヤーのジグリーを難なく追い抜いてい
く。モスクワの表情は平静に見えた。ただ,食料品店や酒屋の前には普段より長い行列があるのが見えた。人々は突発事態に備えて,買い出しをしているようだった。

 イリヤーは別に支障もなく,ペチャートニコフ通りの「新時代」社にとびこんだ。夏の
休暇でスタッフは半分しかいなかったが,イリヤーの姿に皆歓声をあげ,口々に情勢の説
明を始める。イリヤーは彼らをかきわけ,ガラスの壁で仕切られただけの編集長室に入る
と,主だった社員を集めて緊急会議を開いた。

―――これは,明日の新連邦条約締結を前に,保守派が打った最後の賭だ。すぐ全社
員を休暇から呼び戻そう。いや,彼らは自分で帰ってくるだろう。帰ってこないやつらは
,日和見と見なす。クーデターの中心はクリュチコフKGB議長,そしてヤゾフ国防相と
プーゴ内務相。ルキヤーノフ最高会議議長も必ず一枚かんでいる。だが,KGBも軍も警
察も,一枚岩じゃない。内務省のエーリンやドゥナーエフはプーゴ大臣に抵抗している。
ポポフ市長は中央アジアにいるが,ルシコフ副市長はプロコフィエフ市共産党書記に反旗を翻したようだ。偉い奴だ。
 それにしても,変なクーデターだ。甘すぎる。ラジオ局「モスクワのこだま」は電波を切られたし,幹部用電話は通じなくなったが,一般の電話は通ずるし,ファクスも通ずる,西側にも発信できるんじゃないか? ゲーニャ,お前試してみろ。短波なら,自由欧州放送だって聞けるぜ。非常事態とは言いながら,生活は普段のとおり。これじゃ,誰も怖がらない。あの酔っぱらいのヤナーエフなんかに,大統領代行をやらせて。あれじゃ,誰も非常事態委員会を真面目に取らない。いったい奴らは本気なのか。
 エリツィンも逃がしてしまった。奴らの最大のポカだ。彼が昼日中,国会議事堂に乗りこむのを見逃すとは。これで,抵抗の核ができた。ゴルバチョフは,生きているのか?
わからない? 黒海のフォロスの別荘に軟禁されているのでないか。電話してみた? なに,まだだ? とにかく,かけてみろ。
 国会議事堂は戦車で囲まれている。おい,セリョージャ,お前アフガニスタン帰りだろ
。早速現場で,兵力の見積もりをやってくるんだ。だが,市民ももう一万人もが集まって
いる。付近の学校の教師たちも,バリケードを作るのを手伝っている。旧アフガン兵の指
揮だ。こりゃ,大したことだぜ。パリ・コミューン以来だ。
 だがすべての市民が抵抗姿勢を示しているわけではない。もろ手をあげてクーデターを
支持している者はさすがに少ないが,ほっとした者もいるようだ。これで混乱と国の屈辱も終わるというわけ。インテリの中にも,諦めている連中がいる。やっぱり駄目だった,別荘に行って野菜でも作ろう,という連中。腰ぬけだ。
 わが社の方針をどこに置く? それはもちろんクーデター糾弾。昔に戻れば,俺たちの
新聞は残れない。あらゆる手段を使って,自由を守る。核はエリツィン。しかたない,今,彼以外に非常事態委員会に対抗できる者はいないんだ。他紙の動きは? なに,皆で「共通新聞」を出すんだと? 結構,大いに結構。エリツィンが声明を出した? 何部ある?一部だけ?! 馬鹿,ゼロックスでも何でもいい,紙のあるだけ作って,皆で街に出てばらまくんだ。どうせ今,新聞は出せる状況じゃないだろう。
 情報を集めるんだ。情報もなしに,おしゃべりしてちゃいかん。「クーデター失敗の顛
末」の特集を,今から作るつもりでな。スピードが勝負だ。サーシャにはVOAを聞かせ
,グリーシャにはCNNを見させておくこと。ガーリャとコーリャは,電話をかけまくれ
。ヴァーリヤは情報をどんどん英訳して,西側のマスコミにファクスで送るんだ。西側の
支持が大事だ。費用? そんなものは気にするな。社運がかかっている。他の記者の配置は? 何,国会議事堂内部に張ってない? 俺の指示を待っていた? 馬鹿,それでも記
者か? 価値のある情報は指示がなくとも自分で取りにいくものだ
 イリヤーは編集長室を出て,大声で人員配置を指図した。若い記者たちは,歓声をあげ
て仕事にかかっていった。イリヤーは仕事場を見まわると編集長室に戻り,やっとついた
ばかりのテレビでCNNを見始めた。早口の英語は彼にはよくわからなかったが,エリツ
ィンが戦車によじ上り国民へのアピールを読み上げるのを見て,国際世論がクーデターを
糾弾していることを確認した。

               「ロシアの市民へ」
 一九九一年八月十八日から十九日の夜にかけ,合法的に選出された大統領が,権力から遠ざけられた。この行為を如何に正当化しようとも,これは右翼反動による憲法違反のクーデターである。
 国民があらゆる困難と最大限の試練の中にあるとは言え,この国の民主主義発展の過程は,ますます深く後戻り不能の性格を帯びつつある。ロシアの諸民族は,自らの運命の主人となりつつある。
 そのような事態の発展は,反動勢力の怒りを呼び,彼らをして,困難な政治・経済的諸問題を暴力的手段で解決せんとの,無責任で冒険主義的な試みに駆りたてた。これまでも,クーデターを実行せんとの試みは存在していた。
われわれは,そのような暴力的手段は受け入れてこなかったし,今も受け入れることはできない。彼らは,全世界の前にソ連をおとしめ,国際社会におけるわれわれの権威を損ね,われわれを冷戦時代と国際社会からの孤立に押し戻している。
 これら全てに鑑みわれわれは,権力についたいわゆる「委員会」を非合法と宣言する。従って,右委員会によるすべての決定と措置も非合法である。
      ロシア社会主義共和国連邦大統領        ベ・エヌ・エリツィン
      ロシア社会主義共和国連邦大臣会議議長     イ・エス・シラーエフ
     ロシア社会主義共和国連邦最高会議議長代行 エル・イ・ハスブーラートフ
                    一九九一年八月一九日 午前九時

 危機の時,指導的地位にある者は案外退屈な時間を過ごすことがある。一度指示の歯車
が回りだせば,情勢に変化のないかぎり,リーダーのやることはあまりない。イリヤーは
電話をとり,別荘の番号をまわした。リューバが心配しているだろう。電話はいつものと
おり,簡単には言うことをきかなかった。違う番号にかかったり,話し中だったり,かか
ったと思ったら切れたりで,リューバを電話口に呼びだせたのは,やっと五回目にダイヤ
ルをまわした時だった。それでも,電話が通じているだけまだいい。変なクーデターだ。
 「やあ,リューバ,俺だ。無事に着いた?」
 「イリューシャ。イリューシェンカ。私よ。イリューシェンカ,どこにいるの。危ない
ことはしないでね。お願いだから。危ないことはもうしないでね」
 「本社だ。危ないことはない。こんなんじゃ,うまくいかないよ。リューバ,元気?」
 リューバはしばし沈黙し,涙声で聞いた。
 「あ,あなたはどうなの?」
 「リューバ,謝る。もうあんなことはない」
 「私もそう思ったから帰ってきたの。イーゴリにも忘れられちゃうもの」
 リューバは,もうそれ以上しゃべることはできなかった。イリヤーは,事が収まるまで
はそこにいるよう優しく言うと,イェゴール伯父にモスクワの状況を簡単に説明しようと
したが,戦車という言葉を発しただけで電話は切れた。再び電話したイリヤーに,イェゴ
ールは,主張が何であれ,国民を敵にまわすようなこうしたやり方は,共産主義者として恥だ,闘え,とイリヤーに言った。
 イリヤーは久しぶりに,自分でペンを取った。

   非常事態委員会の出方はのろのろしている。一片の指令で国全体が動いた頃の幻覚
から逃れられない彼らは,ペレストロイカの時代に政治意識の高い市民が育ってきたことを過少評価していた。非常事態委員会が動員した武力は,市民を黙らせるためにはあまりにも少なく,また市民はコピー機やラジオやファクスやコンピューター通信など,自前の通信手段を有するに至っており,非常事態委員会はこれらを遮断する必要性に考え及ばなかった。
□  抵抗がここまで明らかになった今,非常事態委員会側は,大流血のリスクを冒して
これを徹底的に弾圧し,国民と全世界を敵に回すしか道は残されていない。しかし,「新時代」が取材したところでは,軍もKGBも警察も割れている。レニングラードはエリツィンを支持するサプチャック市長の下にあり,地方の政府にもエリツィン支持を匂わせるものが増えている。自由と国の文明化を求める者は,エリツィンの下に結集せねばならない。

 イリヤーはこれを一気に書きあげると,レニングラードに置かれた「共通新聞」編集本
部に送った。それは同時に,プーシキン広場に集まった群衆に対して,「モスクワ・ニュ
ース」社のスピ カ で読みあげられて,喝采を呼んだ。
 
夕方には,朝から非常事態委員会が予告していた記者会見が,外務省プレス・センターでやっと行われたが,それを聞いて帰ってきた若い女性記者ナージャは,皆の前で笑いこ
ろげた。
 「何,あれ。全然すごみがなくて,まるで昔の政治局のパロディー。アヒルとか七面鳥
とか,そんな顔の無能な連中が壇上に雁首ならべて,誰が責任者なのかわからない。ヤナーエフときたら,手がぶるぶる震えているのが,良く見えるの。あれで本当にクーデターやろうってんだから。あんな連中がこれまでこの国を治めてきたの? 同志ゴルバチョフが元気になったら,早く戻ってきてもらいたい,ですって」

 編集局の中はその言葉にわいたが,イリヤーにはナージャの最後の言葉がひっかかった
。「早く戻ってきてもらいたい」だって? クーデターは,前の権力者を倒そうとするも
のではないか。非常事態委は,ゴルバチョフにクーデターを贈り物にしたつもりなのか?
このドタバタ劇は,何なのか?

 その日一日イリヤーは,ジャーナリストとして現場に行きたい本能がうずくのを感じて
いたが,編集長としての責任を考えて社屋に止まっていた。親友サフロンチュクは国会議
事堂にこもり,イリヤーに頻繁に電話をしては近況を教えてきた。

―― お前,本当にラジオで聞くまで知らなかったのか? お前のところの当直体制はど
うなってるんだ? ヤーコヴレフ親爺は何日も前に察知して,ゴルバチョフが休暇に出る
前に警告したが,相手にしてもらえなかった。親爺は今日午前四時半に,カルーギン議員
から電話でクーデターを知らされたが,外にはKGBの車がもう張っていた。彼が無事に
脱出できたのは,エリツィンに電話をいれて護衛を送ってもらったからだ。彼は今,シェヴァルナゼたち,ゴルバチョフから離れていったリベラルの糾合をはかっている。
 軍では,グラチョフ空挺部隊総司令官がエリツィンを支持していて,作戦計画はエリツ
ィンの側に筒抜けだ。内務省では,ドゥナーエフ次官がエリツィン支持だ。内務省が割れ
ているので,モスクワの警察は日和っている。クーデターなのに,街には警官がいないだ
ろ? そのためなんだ。
 国会議事堂の防衛力はほとんど素人ばかりで,突入されれば終わりだけど,数はどんどん増えているし,士気も高い,内務省から脱サラした,あのコスチャコフが設立した初の
民間警備会社アレックスは,二百名も要員を派遣してきたよ。

 イリヤーは,別荘にいた父ヴォールホフも電話でつかまえた。ヴォールホフは共産党へ
の憎しみと,ロシア精神復活の必要性を熱っぽく説き,それもプーシキン広場のスピーカ
ーで大衆に伝えられた。ミュルレル夫人と夫ヴァレンテイは,国会議事堂やモスクワ市庁
舎を駆けまわっては市民をアジり,時々電話でイリヤーに情報をいれてきた。
 
二十一時のテレビ・ニュース番組「ヴレーミャ」は,戦車によじ登って国民へのアピールを読むエリツィンの姿を映しだし,イリヤーをはじめ社内の皆を驚かせると同時に喜ば
せた。
――ラズートキンだ,ラズートキン国営テレビ副会長のさしがねだ。良くやった。

 その夜は,タマン機甲師団の戦車十両が国会議事堂側の護衛にまわったし,トゥーラ空
挺師団の空挺大隊がグラチョフ司令官の指示でやってきた。サフロンチュクからの情報で
は,ヤナーエフはへべれけに酔って自宅に戻ったし,パブロフ首相とそのスタッフは,オ
フィスで酒盛りをしてぐでんぐでんに酔っていた。ヴォルクタ地方の炭坑は,クーデターに抗議するストライキの準備を進めていたし,二十日の朝にも国会議事堂に突入することを命じられたKGBのアルファ部隊は,準備不足を理由にその日の作戦実行を拒絶していた。ヤマは越えたとして,国会議事堂から自宅に帰った者もかなりいる。

 イリヤーは,編集長室の椅子で仮眠した。社内では,興奮した若い記者たちが眠ること
もできずに,知人に電話をかけたり,外電を読んだり,CNNを見たりしては,世紀の大事件への参加意識を確かなものにしようとしていた。彼らは,全世界がソ連に注目し,全世界が自分たちを支持してくれているように感じていた。夏の終わりの冷たい雨がしとしと降る中で,二十日の朝が明けてきた。

 二十日の昼は,エリツィン側と非常事態委員会の間で交渉が行われたが埒はあかず,夕方になるにつれて再び緊張が高まった。オフィスで情勢を追うことに完全に飽きたイリヤ
ーは,二十一時の「ヴレーミャ」で不吉な顔をしたカリーニン・モスクワ軍司令官が二十
三時以降の外出禁止令を発表したにもかかわらず,とうとう指揮を副編集長にゆだねると,国会議事堂のサフロンチュクを訪ねていった。

 スモレンスカヤ駅で地下鉄を下りると,サドーヴォエ通りをふさぐトロリー・バスのバ
リケードが目に入る。しかし回りには兵士がいるわけでもなく,沢山の野次馬ともおぼし
き群衆が酒が入ったと思える勢いで気勢をあげていた。そのなかを黄色い法衣を着た東洋人の僧が,手に持った太鼓をたたき,大声で平和を叫びながら歩いている。

 国会議事堂のまわりは,戦車や装甲車,そして鉄パイプや柵の一部で作られたありあわ
せのバリケードや,護衛のために駆けつけたタクシーの群れに囲まれていたが,雰囲気は
あたかも野外ロック・コンサートのようだった。若者たちは焚き火で暖を取りながら,ラ
ジカセや仲間のギターで時をつぶしており,その中を中年の女性が自分で作った山のよう
なピロシキを配って歩いていた。戦車や装甲車の兵士は市民たちと話しており,市民から
エリツィンのアピールをもらっては読む将校もいた。一人の酔っぱらった失業者風の男が
,シャツの胸をはだけて戦車の兵士に叫んでいる。
 「撃ってみろ! 撃てねえだろう,俺もお前もロシア人よ!」

 急ごしらえの演壇では,喜劇俳優ハザーノフが,ゴルバチョフをからかい,ヤナーエフ
の手の震えをまねては大喝采を受け,詩人のエフトシェンコが若者からのやや冷たい反応を受けながら,抵抗勢力を讃える自作の詩を不安げな表情で朗読していた。民主ロシアの
チェゴダーエフ議員たちがメガフォンを手にがなっている中に,イリヤーはアリルーエフ
のダミ声を聞きつけて思わず苦笑した。あの男,こんなとこまでやって来てポーズを取っ
てやがる。
 「アリルーエフだ。俺は,ケチなことはやらねえ。さあ,持っていけ!」 と彼は叫び
,手に持った百ルーブル紙幣を皆にばらまいた。
 
 イリヤーは国会議事堂の入口で厳しい誰何を受けたが,サフロンチュクに事前に電話を
してあったので,入ることができた。アリルーエフたち新興の成り金は,自分の将来をエ
リツィンに賭け,旧アフガニスタン出征兵を中心にしたガードマンを,豊富な資金をつぎ
こんで警備会社から大量に送りこんできていた。警備員たちは自動小銃を手に,エレベ
ター・ホールや階段のわきに陣取っていたが,目に恐怖と狼狽の色を浮かべた者も少なく
なかった。

 サフロンチュクは,目のしたに隈ができていたが,両手をひろげ嬉しそうにイリヤー を迎える。
 「今夜が山だ。奴らは分裂している。誰も,流血の責任を取るのを怖がっている。ここで俺たちが勝てば,保守の奴らはもう終わりだぜ」
 「エリツィンの天下か」
 「そういうことだ」
 「お前,どうするんだ」
 「ゴルバチョフは多分戻ってきて,最後の努力をするだろうよ。それにつきあって,それからやめるんだな。お前拾ってくれるか」
 「喜んで。給料は大したことないけどな。そんなことより,サーシャ,今度のクーデター,本物なのか」
サフロンチュクはいつものポーカー・フェイスを崩さなかったが,その中で彼の表情に一
瞬驚きと躊躇が走ったのをイリヤーはすばやく目にとめた。
 「本物かって,決まってるじゃないか。でなきゃ,俺もこんなとこじゃなくてクレムリンにいる」
 「サーシャ,お前もっと何か知ってるな? 俺は,贋物に命を賭ける気はしないよ」
 「イリューシャ,俺だって,そうだ・・・。うん,これは贋物が本物になっちまったの
かもしれん。ソ連を強めるべきクーデターが,ロシアとエリツィンを強めることになっち
ゃったのかも」
 「どういう意味だ? ジャーナリストとしてではなく,友人として聞いている」
 「俺だって全部を知っているわけじゃない。ただ,七月上旬ゴルバチョフは,KGBの予備将校数十人をクレムリンに配属させる命令書にサインしている。これが,何のためなのかは,よくわからない。それに十八日には知人にわざわざ一般電話回線を使って,『用心しなさい』と言ったらしい。何か,どこかおかしいんだ」 
 半開きになった窓が突如音をたてると,湿った冷たい気味の悪い風がレースのカーテン
をさっとそよがせた。
 「一体何なんだ,それは?」
 「俺もそこを知りたい」
 「やれやれ。何てことだ。しかし,起こったことはしかたない,か。いずれにしても,思いがけない方向に動いているな。共産党とソ連は,これで崩壊するぜ。守ろうと思ったものを,自分で崩してしまったんだ」

 イリヤーはサフロンチュクの部屋を出ると,出口を探して歩いていった。広い薄暗い廊
下の向こう,レーンコート姿の上に帽子から流れでた長い金髪を揺らせた,均整のとれた
若い女性の姿が浮かびでる。オーロラ! 彼女は立ちどまり,ためらった。彼女の目には
涙が光り,イリヤーにすがりつくような表情だった。
 「イリヤー,イリューシェンカ。私の太陽,私の英雄。会いたかった。とても会いたか
った。最後に。最後によ。私を許して,イリューシェンカ。子供のために,私を許して」
 「子供だって? 俺の子供なのか?!」
 イリヤーは思わず大声をあげたが,オーロラは答えることなく,イリヤーにただしがみ
つき,涙を流しながら彼の唇をむさぼった。かたわらを武器を持った警備兵や,書類を持った役人たちが,急ぎ足に通りすぎていく。

 「敵の攻撃が迫っています。敵の攻撃が迫っています。女性は館の外に退避して下さい。男性はガス・マスクを配りますので,各階の係りのところに出頭して下さい」 
 急迫したアナウンスの声も,二人には聞こえなかった。だが二人の横では,いたたまれ
ずにイリヤーを追ってサフロンチュクのところまでやってきたリューバが,案内係りの横
で凍ったように二人を見ていた。気がついたイリヤーを見ようともせず,リューバは静か
に,しかし足早に出口にむかい,イリヤーはその後を追った。オーロラは涙を浮かべたま
ま,魂が抜けたようにただ立ち尽くしていた。

 国会議事堂の前の人ごみで,イリヤーはリューバを見失った。リューバはほとんど走り
だしていた。汚らわしいものから,できるだけ速く離れたいかのように。キーエフ駅方面
で乾いた銃声が数発上がる。イリヤーは,リューバの先を越してスモレンスク駅でつかま
えようとして,全速力で走りだした。彼には,夜の空気を装甲車のエンジン音とキャタピラの無機的な音が満たし,その不吉な音がますます近くに迫っているのも,もはや聞こえ
なかった。今リューバをつかまえなければ,すべては終わり。誤解,誤解なんだ。リューバ!
 カリーニン通りとサドーヴォエ通りが交差する橋は,夜間外出禁止令を無視した群衆で
ごったがえしており,イリヤーは橋の手前で右に折れて,サドーヴォエの歩道の上の群衆
をかきわけだした。轟音と自動小銃のけたたましい音が聞こえると,トンネルから装甲車がすごい勢いでとび出して急停車した。
 「どけ,どけ,危ない! どうした!? 人殺し。人殺し!」 
群衆から声があがった。血だらけの雑巾のようになった若い男が,装甲車の前に倒れてい
る。イリヤーは群衆に押されて,車道の上に出た。イリヤーは,装甲車の前に倒れている
男のかたわらに,片手にぼろ切れを持った若い男が肩を押さえ蒼白な顔でよろめいているのを見た。その顔には,見覚えがある。ロマンじゃないか! 行方不明の娘婿。こんなところで!
 「ロマン,どうした?」
 「あ,イリヤー・イヴァノヴィッチ」 ロマンは立ちすくむ。
 「イリヤー・イヴァノヴィッチ。やられました」
 「馬鹿。こんなところに来るものじゃない。ユーリヤとイーゴリをどうするつもりなん
だ。傷を見せろ」 イリヤーは,リューバを追うのを諦めて,目の前のロマンを救うこと
にした。孫のイーゴリが,小さい頃の自分のようにまた父なし子になるなんて。
 イリヤーは,傷ついたロマンを背負って,サドーヴォエを歩きだす。車を止めるんだ。
早く病院に担ぎこまねば。

 二十一日になって,クーデターは失敗が明らかになった。二十日深夜の時点から軍・K
GB内部の分裂は決定的となり,クーデター側は主導権を失った。二十一日ロシア最高会
議緊急総会が開かれている中,非常事態委員会の主謀者たちは車でヴヌーコヴォ空港に脱
出し,なぜかフォロスのゴルバチョフ大統領のもとへと向かう。その日の午後には,国営テレビはすっかりエリツィン寄りの報道姿勢に変わっていた。

 イリヤ-は,一九日からの疲れが一度にでてきた。ゴルバチョフがモスクワに帰ってき
た時,これからの情勢はどうなるかとちらと考えもしたが,昨日リューバがイリヤーから
の電話にでようともせず黒海のスフミに帰ってしまったこと,ロマンの負傷を聞いたユーリヤの錯乱,ロマンの父イヴゲーニーの冷たい反応,オーロラが言った「私たちの赤ん坊
」という言葉,これらが潮のように押しよせて,頭の中をぐるぐるまわり,次の瞬間には意識が切れてふっと気が遠くなるのだった。

 夕方になり雨はあがり,雨に洗われた建物の赤い煉瓦に,夕日が新鮮な光を投げかけた
。近くの交差点では,黄色いショート・パンツにTシャツ姿の若い娘が,ローラー・スケ
ートですべりながら,クーデター失敗のビラを通行人に微笑みながら渡している。今は,
道ばたで物乞いのひくアコーディオンの悲しい音さえ,なぜか弾んだものに思われた。
 街をいく人々の顔は晴々とし,自分たちの力で新しい時代が開かれたことへの誇りが見られた。ロシアの大衆は,エリツィンの下で,自由と改革の女神との束の間の新婚生活を味わっているようだった。
何か,心にポッカリ穴ができたような,それでいて晴れがましく,新鮮で奇妙な気
分,新しい時代なのだ

 次の日の夜明け,暴走族「地獄の狼」はオーロラを先頭にコムソモーリスキー通りをレーニン丘まで進むと反転し,オートバイの隊列を横に整えた。眼下に眠るモスクワの東の空が次第に赤らみ,新しい時代の太陽が姿を現す。
 「地獄の狼」は,一斉にクラクションを鳴らして,女親分に別れを告げた。オーロラは
,「みんな,元気でね,さようなら!」と叫ぶと,アクセルをふかす。赤いBMWは,レ
ーニン丘の深い森から飛びだして,空中高く舞いあがる。
 あらゆる欲望と絶望,そして希望が眠るモスクワは眼下に横たわり,その向こうにはロ
シアの大平原が青く無限に連なっていた。金髪を太陽にきらめかせ,真紅のオートバイと
ともにモスクワ川へと落ちていくオーロラ。子熊座につながれていた犬は解き放たれて,
この世の終わりがやってくるだろう。

 「狼」たちは頭を深く垂れ,女親分を見送った。
――旧き体制と人間の業の罪を一身にひきうけて,凛々しくあの世に旅立つ,俺たちの女親分。これまで不思議な力で俺たちを警察から守り,数々の夢をかなえてくれた
 彼らには,なぜかスターラヤ村のボズネセンスキー教会のマリア像の目から,赤い涙が流れ落ちるのが見えた気がした。

ああ,イリヤー。私はあんなに待っていた。
   遅すぎた,遅すぎた出会い。
   罪にまみれたこの私は,神の裁きを受けるため・・・

    あなたは私の大地,私の父,私の母。
   あなたの子供を残していきます。
   もし罪の子だとしても,同じロシアの大地から生まれた子供

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