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世界はこう変わる

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2010年12月31日

エストニア、リトアニア紀行記

11月初め、外務省に派遣されてエストニア、リトアニアに講演に行ってきた。強行軍で、日曜に出発して金曜にはもう帰ってきた。両国とも首都だけではなく、それぞれ車で1時間半はかかる地方都市(前者はタルトゥー、後者はカウナス)まで「拉致」されて、合計4回、そして地元の有識者たちとの昼食、夕食、そして地元マスコミへのインタビューと、大使館からこってりしぼられて帰ってきたのである。9月以来、天津、ウラジオストック、モスクワと続いた僕の出稼ぎは、このバルトで頂点に達し、ここで僕は疲れ果てて、年末になっても疲れているのだ。

強行軍で両国のことを調べる時間もなかったし、その後所用に取り紛れて印象記をまとめる時間もないうち、記憶の多くは消え失せた。沢山書いたはずのメモも、なぜか見つからない。だから、今回は見つかったかぎりのメモをもとにして、エストニア、リトアニアについての印象の断片を紹介するにとどめる。
バルト諸国の地図はをご覧ください。

成田からタリンまで
今回は、ミュンヘン経由でタリンへ飛ぶ。13時20分、ルフトハンザは定刻通りに成田空港のエプロンから動き出した。このドイツ的(あるいは日本的)正確さは、可愛げがない。ルフトハンザと言えば、ドイツのサッカー・チームのようにすっきり、整然としたスチュワーデス達のサービスが快かったものだが、生粋のドイツ人たちはもういない。ドイツ的な規律と能率に欠けたサービスぶりだった。

エストニアの首都「タリン」(Tallinn)とは、「デーン人(デンマーク人)の町」という意味なのだそうだ。この町は、大きな町にしては珍しく、これといった川が流れていないようだ。付近の湖が昔からあって、ここから水を得ていたのだろうか? 
飛行機から降りてターミナルに入ると、もう全く自然にヨーロッパだ。飛行機の荷物を下ろす光景からして、整然と組織されている。空港バスの運転手も、ロシア風の「いやいや働く労務者」という感じではない。空港ターミナルは小ぶりだが、北欧のログハウスを思わせて人間的で温かい。そしてホテルのテレビはロシア語、ドイツ語のチャンネルが多く、廊下の案内書きは英語とロシア語だ。レストランのバターはValioで、これはフィンランドの会社。

タリンの街はヨーロッパでも最も美しいものの一つだ。古い街並みがそのまま残っている。
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そして平和だ。大統領官邸をそばから見たが、ここには実に警備というものがない。世界でも珍しい開放的な大統領官邸だろう。タリンは2011年、「欧州文化首都」になる順番なのだそうだ。これは毎年欧州のどれかの都市が文化首都に指名され多くのイベントを開くもので、観光客が増える。日本からも大いに参加したらいい。
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(タリンのガラス細工の店――幻想的)

「ヨーロッパ的」なるもの
バルト諸国はソ連の中では最も早く、つまり1991年12月にソ連が崩壊する以前に独立した国々である。ソ連末期には三国どこでも独立運動が盛んになったが、中でも1991年2月リトアニアの首都ヴィルニュスのテレビ局前で、独立運動の市民たちがソ連軍の戦車と対峙して女学生がひき殺された件は痛々しかった。
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(テレビ塔前の慰霊碑)

ソ連の中で、「自分から」独立して行ったのはバルト諸国だけなのだが、その背景にはこれら諸国の市民が自分達は西欧文明圏に属しているのだという明確な意識を持っていたこと、そしてソ連の連邦財政から受益しているのでなく、「持ち出し」であったことが大きいだろう。これら諸国はソ連時代から、「ソ連のなかではもっともヨーロッパ的な」という形容詞をつけられ、ロシア人の憧れの的だったのだ(逆にバルト三国の人たちは、武力を背景に支配を続けるロシア人を蔑んでいた)。

バルト三国はいずれも中世は、ハンザ同盟に属する都市を有し、その後もエストニア、ラトビアはドイツの強い影響下にあったし、リトアニアはポーランドとほぼ一体のものとして(現在は微妙に仲が悪いが)同じくヨーロッパ文明(但しエストニア、ラトビアと異なりカトリック系)の波に洗われていた。
そしてバルト三国は、第一次世界大戦から第二次大戦の間には、西欧的な伝統をベースとした共和制・民主主義の独立国であったのだ(第二次大戦においてはドイツ軍とソ連軍に往復びんたのように占領・支配を繰り返され、そのたびに指導層は殺され、シベリア送りになった)。

「ヨーロッパ的」という言葉は、高い生活水準、教育・知的水準、そしてそれらに裏付けられた権利意識、健全な個人主義ということを意味する。節度、謙譲、公正さをこれに加えてもいいだろう(もちろん、これらの基準を満たさないヨーロッパ人は数多いが)。この文明をいちど味わった東欧諸国がペレストロイカを経て1989年には西欧文明圏に自然に戻って行ったように、バルト諸国もソ連崩壊前後に西欧文明圏へと回帰したのである。

僕は1984年か85年、これら三国に出張したのだが、その時から彼らの対ロシア感情は悪かった。価値観を異とする連中に力で支配されている悔しさが、言動の端々に感じられたものだ。

当時僕はソ連の諸共和国に行くたびに、同じ質問を地元の経済研究所で繰り返した。それは、「あなたの共和国はモスクワの中央政府との関係では、(中央からもらっている種々の価格補助金なども勘案したうえで)貰いと支払いの間の関係はプラスですか、マイナスですか?」というものだ。プラスなら、中央からの「貰い」の方が多いことを、マイナスなら中央へ貢いでいる方が多いことを意味する。驚いたことに、この質問にはどの共和国でも即答が返ってきた。皆、自分たちの共和国を独立した経済単位としてとらえ、中央政府との関係を損得の観点から計算していたのだろう。

そしてモスクワ中央政府との関係が自分達の「持ち出し」に相当するのは、経済的に進んだバルト諸国だけだった。1984年当時、コーカサスの諸国は中央政府との経済関係は収支とんとん、中央アジア諸国は中央政府からもらう分の方が大きいことを自ら自覚していた。

バルト三国スケッチ
エストニア人は「北欧的で合理的、個人主義的、内気で静か」なのだそうだ。エストニア人が個人主義的でどちらかと言えばばらばらであることに比べて、リトアニア人はより家族的で人脈を大切にする。彼らがカトリックであることは、そうした特性によく合っている。

ビジネスの面で、エストニア人はきちんとしているが(北欧諸国からの企業進出が多いこともあり、ロシアのようなあくどい大資本家「オリガーク」もいないそうだ)、リトアニア人は法を守らない側面があるのだそうだ。ラトビアは今回行かなかったが、経済がリガに集中し過ぎていて、そこにはラトビア版の「オリガーク」がいるのだそうだ。
社会主義集権経済が自由化すると、そこには(民営化に伴う)利権が生まれる。ほぼ全てが国有だった不動産の一つ一つが「利権」となるのだ。たとえばリトアニアは利権体質が強いのだそうで、「あそこは何々元首相の持ち家」というような言葉が、現地有識者の会話の端々に出てきた。

ところで、今ではバルト三国とロシアを截然と分けて考えるが、古代の神にまでさかのぼると両者は混然一体となる面もある。例えばリトアニアのカウナスに行った時、その地の古代原始神はペルクーナスと呼ばれる雷神だったと聞いて(今でもその像がある)、僕は瞬時にノブゴロドやキエフの「ロシア人」(あるいはヴァイキングだったかもしれない)がキリスト教化以前に信仰していた雷神ペルーンを思い出した。
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(復元されたペルクーナスの像――だと思う)

あとで調べてみると、両者はインド・ヨーロッパ語系諸民族の原始神Perkwunosから派生したもので、ペルクーナスはバルト語諸族の神、ペルーンはスラブ系語族の神ということになっている。スラブ系語族の神としては他に太陽や熊なども知られているので、雷神はバルト語諸族からスラブ系語族に伝わったものかもしれない。
いずれにしても、広いユーラシア大陸は混然一体とした雄大な存在なのだ。

エストニアでは、首都タリンをロシアにとられていた時期があることもあって、車で2時間くらいのタルトゥーの町が教育・文化面での実質的な首都になっている。エストニアの教育省はタルトゥーにあるし、最高学府はタルトゥー大学なのだ。この町の人口の20%が大学生なのだと言う。
RIMG0283.JPG(タルトゥーの夜の街並み)


団結心に乏しいバルト三国
旧ソ連では、バルト、コーカサス、中央アジア、どれを取っても同一地域の諸国の間の関係は強くない。いやむしろ疎遠だ。いずれも経済体質が弱いために、どこか大国にくっついて恩恵を得ることに夢中になって、同じような小国である地域の仲間諸国には目がいかないし、むしろ隣接諸国とは紛争を抱えていることが多いからだろう。そのせいか、僕がタリンから乗ったヴィルニュス行きの飛行機は、週日なのにがらがらだった。
バルト三国も、こんなに狭い地域に併存しているのに、それぞれ言語の系統が異なるために、話が通じない。彼らはロシア語が嫌いなはずなのだが、英語を知らない場合にはロシア語で交流せざるを得ない。ヴィルニュスの空港でも、そうした場面を目撃した。

政治情勢
バルト三国独立後の政治情勢の詳細は、ここではレビューしない。エストニアのイルヴェス大統領はスウェーデンで生まれ、米国で教育を受け、1996~1998年及び1999~2002年に外相を務めた経歴を持つ。リトアニアでは2009年6月に、それまでEU委員会で財政・予算担当委員を務めて声価の高かったグリバウスカイテ女史が女性(と言っても、空手の黒帯)として初めての大統領に当選している。つまり両国とも世界金融危機のあおりで一時政治的にも不安定化したものの(例えばエストニアではGDPが20%減少し、失業率が2%から14%へと跳ね上がった。2009年1月にはエストニア、ラトビアで市民の抗議デモがあり、ラトビア政府はそれから間もなくして崩壊している)、EUの一員としての基本方向に揺らぎはないのだ。

他方バルト三国は、最近では「脅威」というものがもうなくなったかのように振る舞う英仏独とは異なり、ロシアをいまだに現実の脅威としてとらえている。バルト海の港町クライペダ(リトアニア)からは、内陸の首都ヴィルニュスまで一直線のハイウェーが通っている。これはソ連の時代に作られたものの由。口さがないリトアニア人は言う。「これはクライペダからウィルニュスまでソ連の戦車を送りやすいように、ハイウェーを作ったのだ」と。そう言えば、僕も1984年ここに来た時には、このハイウェーを使ったに違いない。

エストニアとロシアの国境にはナルヴァの町があって、ここはエストニアのエネルギー源であるオイル・シェールを精製しては発電所にまわしている大事なところなのだが、ソ連時代にロシア人が大量に移住してきて、今では人口の98%がロシア人になっている由。市長だけはエストニア人なのだそうだ。ここらへんの両国国境は、合意はされてはいるものの、議会の批准がすんでいないので実質的には未解決なのだ。

このような事情があるからバルト三国は、NATOの中ではいつも、ロシアに対して強面の政策を主張する側にまわるし、今回ウィキリークスでリークされたように、有事にはNATOからポーランドとバルト三国へ部隊を送るという作戦計画も存在しているようだ。
それに今回話に聞いたところでは、リトアニアの空軍基地をベースにNATO各国の空軍が交代でバルト三国領空を哨戒しており、タリン近郊にはアマリという予備基地がある。ポーランドは哨戒に、ソ連製のMIG29を使っているのだそうだ。

そしてウィキリークスのリークなどに頼らなくとも、エストニア、ラトビアなどの軍がNATO、あるいは米海兵隊と共同演習したという報道はいくつもある。2010年6月11日にはバルト海のWhidbey島で、500人の米海兵隊が加わって共同演習が行われている。ラトビアの国防相はこの時、「2009年夏にロシアとベラルーシが共同演習をしたことに呼応したものだ」と述べている。

僕は、バルト諸国はEUにもNATOにも入ったことだから、完全に西欧の一員になったのだ、と思い込んでいた。ところが今回エストニアとリトアニアに数日いた限りでの印象では、ロシアの経済的・文化的影響力が徐々に盛り返しつつある。

これは、EUにロシアが進入してきたことを意味する。この傾向はラトビアで最も顕著であるらしい。エストニアではソ連崩壊直後の1992年に秘密警察をはじめ、国家上層部の要員を(ソ連系から自国系に)入れ替えたと言われるが、ラトビア、リトアニアではそうでもないらしい。タリンでも両替所に寄ってみたが、ここは窓口の女性もマネジャーもロシア人で、どこかマフィア風の投げやりな語調のロシア語が飛び交っていた。その隣のマクドナルドでは、客ももっぱらロシア人たちだった。

RIMG0348.JPG(ヴィルニュスの街角で)

ロシア人の多いタリンでは、ある大学教授(エストニア人)が僕に述懐した。「ロシア人学生がエストニア語を真剣に勉強しようとした時期もあったが、今ではまた元にもどっている。自分のクラスはエストニア人、ロシア人の双方がいるのだが、仕方がないので、今ではエストニア語で講義をした後、同じことをロシア語で講義する始末である」と。かなり押されている。ロシア人にエストニア語習得を強制すると、「エストニアはロシア系少数民族の権利を抑圧している」と言って、モスクワが原油供給を停止するなどの報復措置に訴えるからである(2007年にそういうことが実際に起きた)。

だがロシア人学生は屈託がない。講演が終わったあとで、2人のロシア人女子学生が僕のところにやってきて言った。「私たちは本土のロシア人とは違うんです(腰が低くて、すれていないんです、と言いたかったらしい)」と。そして次に言ったことは、「日本語を勉強すれば、日本の企業は雇ってくれるでしょうか?」
自分達はエストニア人に何も悪いことはしていない、自分達にはこの国で、エストニア人たちと全く同等の権利がある、と思い込んでいる。それはそれでいいことだが、地元の言葉くらいマスターしたらどんなものだろう。

経済情勢
経済についても、詳しいことはここではやめて、いくつか僕なりに面白かったことだけ書いておく。
エストニア、リトアニアの金融はスウェーデンの銀行に席巻されているらしい。特にエストニアは金融の80%以上を外銀に委ねることにより、銀行貸し出し増加⇒消費増をベースとした高度成長を演出した。「バルト諸国の経済が好調に見えるとしたら、それは銀行融資があるからなのです」というのが、現地の人の言葉だ。これが世界金融危機で一時、下落したのが現状なのである。リトアニアでは青年の外国への流出が止まらないと言っていた。

エストニアはIT立国を考えていて(スカイプを開発したのはエストニア)、「電子政府」の面で世界の先端を走ろうとしている。2007年、ロシアとの間で民族問題が燃え上がった時、エストニアは「外部」からのサイバー攻撃を受けたが、政府のIT化が進んでいればいるほど、サイバー攻撃がもたらす脅威は大きくなるという皮肉が露わになった。だからエストニアは、「国際サイバーテロ対策センター」を自国に招致したのだが、それにしてはホテルのパソコンはのろかった。いいホテルなのに、ビジネスセンターもない。SPAはあるのに。それでもパソコンに、日本語のフォントがあったのはうれしかった。欧州では、例えばブラッセルでさえ、ホテルや空港のパソコンに日本語のフォントがないことが多いのだ。

エストニアには海を隔てたフィンランドから、「医療観光」に来るフィンランド人が多いのだと言う。なお僕はこれまで、エストニア語とフィンランド語はごく近い言葉で、両者は自由に話し合えるものと聞いていたが、実際には二つの言葉はかなり違うし、エストニア内部でも南北の言葉は違うのだそうだ。ただフィンランドのテレビはソ連時代から見ることができたので、フィンランド語には親しみを持っているだろう。

2007年、ロシアと民族問題が燃え上がった際、ロシアはエストニアへの石油搬出を減らしたが、これは今では回復している由。それでも、エストニアの貿易の3分の2はEUが相手となっている。

エストニアのホテルの朝食の場で、日本のビジネスマン達数人がエストニアの工場を買収する話をしていた。積極的でいい。エストニア人はわりと信頼できそうだし、ここで物を作ればEUへの橋頭保になるのだから(2011年1月にエストニアはユーロ加入の予定だが、現在のようにユーロが低めの時期に加入できるのはついている)、エストニアに直接投資をしたり、企業を買収したりすればいいのだ。

リトアニアでは石油精製、化学肥料など工業の他に、スウェーデンの家具大手IKEAのための家具委託生産も発達している。そしてなんと、カニのすり身生産工場で世界最大のものがある由。工業ではデンマーク資本の進出が目立ち、リトアニアの地場ビール会社はCarlsbergが買収したという。

日本との関係
エストニアもリトアニアも、国際関係を勉強する者なら、メドベジェフ・ロシア大統領が北方領土を訪問したことはみんな知っていて、僕に対する質問の定番のようになっていた。

杉原総領事
カウナスでは、戦前の日本総領事館があった家も見てきた。
RIMG0336.JPG(やっとたどり着いた時は既に夜)

ここは杉原知畝在カウナス総領事が第2次大戦の際、多数のユダヤ人に「独断で」日本を通過するためのヴィザを発行し、戦後それが原因で外務省を辞めさせられたと言われている傑物だ。だが今回、発見したことは、彼が一人だけでこの快挙を成し遂げたのではない、ということだ。当時カウナスにはツバルテンダイクというオランダ人のPhilips支店長がいて、彼がオランダ領キュラソー島にポーランドやリトアニアのユダヤ人を受け入れる査証を斡旋したのが発端らしい。彼らがシベリアを横断するには日本かどこか第三国を通過するための査証を持っていることをロシア官憲に示さないといけなかったために、ユダヤ人は日本総領事館に殺到したとされる。

それでも、杉原総領事は本省からの訓令に反してまでも、資金を持たないユダヤ人にも通過査証を大量に発行した。偉いと思う。なおウィキペディアは、当時日本で一部の者が進めていた「フグ計画」の進行(欧州で迫害されているユダヤ人を大量に満州に引き込み、それによって米国の大資本による対満州投資を再開させようとするもの)とこの杉原総領事の快挙が同時期であることに注目した書きぶりをしている。以前、満州で勤務したこともある杉原総領事だから、外務省以外から何かの示唆を得ていたのかもしれない。

中国の存在感
このバルト海の奥深い懐にも、中国の足音はひたひたと寄せている。タリンの表通りには、「北京」という中華料理屋が看板を出していたが、尖閣事件のあとは遠い外国で中華料理屋に入るのが少しこわかった。

更に奥地のタルトゥー大学で講演した時も、実にそのようなところにまで中国人留学生が何人もいて、講演の後の懇談で僕のところに寄ってきた。女子学生が実に慨嘆に堪えないという表情で、「日本はなんで『釣魚島』(尖閣列島)を中国に返さないのか」と聞いてきたのである。ずいぶん説明したが聞き入れないので、「あなたの言うとおりにしたら、中国が後出しでも自分のものだと宣言した土地は、すべて中国のものになるべきだ、ということになりますよ。それでは今に世界中、みんな中国のものになってしまいますよ。おかしいんじゃないですか?」と言ったら、やっとわかってくれた。それにしても、なんでバルト海までやってきて中国人と論争しなければいけないのか?

この頃の中国は金にあかせて、地球上のどこのプロジェクトにも顔を出す(日本も同じだが)。リトアニアでも、クライペダ港の近代化で日本のJICAも一時FSを手掛けたのだが(矢崎総業がクライペダの経済特別区に工場進出しているらしい)、今では中国が積極的に乗り出してきている。リトアニアの方では、これに乗り気な人と、警戒的な人とに分かれている。

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