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世界はこう変わる

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2010年7月31日

サラエヴォ紀行

「国」・「宗教」で口論するより土地、歴史そして何より人間
            (2011,1 音楽についての一文章を追加)
5月の末、国際交流基金の会議に参加するためサラエヴォに行った。サラエヴォ――以前のユーゴ・スラヴィアが分裂してできたボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国の首都、人口45万人。サラエヴォと聞いてすぐ思い浮かぶのは、セルビアの青年がオーストリア帝国皇子夫妻を暗殺し、欧州大陸を第1次世界大戦に陥れた町ということ。

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(この川にかかる小さな橋を渡ったところで、オーストリアの皇子夫妻は狙撃された)

サラエヴォは民族、文明、そして宗教が入り乱れる街だ。ユーゴスラヴィアを構成したセルビア人、スロヴェニア人、クロアチア人、ボスニア人などはいずれも、6世紀以降この地に進出してきたスラブ人の子孫で、言葉もほぼ同じなのだが、住んでいる地の歴史がまちまちに展開したために、宗教、文化を異にする。古来からの遊牧文明、ギリシャ・ローマ・ヴェニスの地中海文明、ビザンチン、のちにはオスマン帝国から伝わったオリエント文化、それらはこのバルカン地方の得も言われぬ風光美とあいまって、スロヴェニア、クロアチアなどとともに、日本人には知られざる観光桃源郷となっている。

サラエヴォという名称自体、オスマンの知事が建てた宮殿(サライ)にスラブ語の語尾(――イェヴォ)をつけたものだそうで、朝になると教会(それもギリシャ正教会やセルビア正教会やカトリック教会とまちまち)の鐘の音、市電が通り過ぎる音にまじってアザーン(コーラン読誦)が聞こえる。街で聞こえる音楽は、ペルシャ、トルコ、ジプシーのものが混ざり、いわゆるスラブ風ではない。モスクはもちろん、街の各所にある。そして昔スペインを追われたユダヤ人が住みついたから、シナゴーグもちゃんとある。ついでに寺から、木魚をたたき経を上げる声でも聞こえてくれば完璧だ。街の広場はバシュチャルシャという名がついているが、これは中心広場を意味するそうで、いかにもトルコ語風(ペルシャ語?)に聞こえる。

このサラエヴォの古い街を歩くと、つくづく思う。国家、宗教といったものは所詮人が考え出したもの、我々はこうした概念をベースにあれこれ鹿爪らしく議論することに慣れ過ぎてしまったが、そんなことより、人間自身、そしてその人間が住む土地柄と古来の歴史、そういったものに視座を置く方が真実に近いのではないか、と。

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(サラエヴォの旧い街並み)

自由とか民主主義とか概念を操ってきた僕も疲れて、年相応に「風土」とか運命論とかに傾くようになったか。読んだことのない、和辻哲郎の「風土」でも読んでみるか。面白いことに、中学での倫理学(?)の先生は和辻哲郎の子息だったのだ。しごかれた記憶しかないが。

サラエヴォ
ウィーンからサラエヴォ行きのオーストリア航空に乗る。飛行機の名は「クラスノダール」。なぜかロシア南部の地の名前だ。オーストリア・ハンガリー帝国はウクライナまで領有していたから、クラスノダールのあたりも無縁ではないということか。でも、中華航空の飛行機が「鹿児島号」などという名札をつけていたら、やっぱりおかしいだろう。
ウィーンの空港はヨーロッパの中でもどこかひなびた風情があるのだが、この飛行機の中の雰囲気はそれ以上だった。90年代ロシアのならず者風と、だが、数世帯が一緒に住むためか、家だけはやけに大きく立派で嫉妬を感ずる。

サラエヴォの新市街は随分大きく近代的だが、中世以来の古い街は世界遺産ものだ。木材、瓦を多用した白壁の家並みは、グルジアのトビリシあたりを思わせる。瓦、白壁と言っても、アジアではなく地中海文明の系統に入るだろう。

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(サラエヴォの街並み)

エキゾチック。一目見て、こんなに面白い街は世界に少ない。だがよく観察すると、土産物屋ばかりが並んでいることがわかってくる。この歩いて15分もかからない地区に、4万軒の土産物屋がひしめいているのだそうだ。観光で生きている。

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(サラエヴォのバザール)

サラエヴォ市民の85%はイスラム教徒なのだそうだ。内戦(1995年に終結)以前はもっと諸宗教が混在していたらしいが、今ではサラエヴォにボスニア人が集中しているためにそうなったのだろう。イスラムと言っても戒律は緩やかで、酒は飲むし、女性は顔を隠さず、まったく西欧的な装いをしている。豚肉を食べる者もいる由。雰囲気はモスクワに似ている。人種が同じであるうえに、経済・社会の発展段階が似ているのだろう。

内戦のトラウマ
サラエヴォでセルビア人の青年がと言ったが、サラエヴォは現在のセルヴィア共和国にはない。セルヴィア人は冷戦末期、イスラムを奉ずるボスニア人が45%、カトリックのクロアチア人が20%を占めるこの地で覇権にしがみつき、このサラエヴォを周囲の山から包囲して砲弾・銃弾を撃ち込み、普通の市民の間にも多数の死者を出した。そのトラウマは今も市民の心に疼く。
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(この丘から大砲・鉄砲を撃ち込まれた)

サラエヴォは諸方からの通商路が交差する山あいの町で(海からは随分遠い)、いろいろな文明が交差するところだったから、それだけ利害対立が露出する場になりやすいということである。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国は内戦の結果、セルヴィア人が集住する地域とボスニア人主体の地域などに分かれた。そのためにわざわざ移転した者も多い。セルビア部分は中央集権的な統治をしているが、ボスニア人、クロアチア人などはそれぞれ、スイスのように自治権の強いCantonを作って集住しているのだそうだ(そのためにこの共和国には14もの「文部省」がある)。
ボスニア人(イスラムを信ずるスラブ人)とクロアチア人(キリスト教を信ずるスラブ人)の間には紛争も見られるそうで、権力が真空化した地域では土地の所有権などをめぐり利権対立が表面化しやすいことを示している。

ボスニアの日本人
「バルカン室内楽団」http://www.geocities.jp/puntadarco/balkan.htmlのコンサートを聞きに行った。指揮者が日本人の柳澤寿男氏で、杉並区ロータリー・クラブの人たちが支援者となっていて、このコンサートに大挙してやってきていた。

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(バルカン室内管弦楽団のコンサート)

日本人の海外旅行客もこの頃はずいぶん洗練され、品が良くなってきた。パリのブランド店に大挙して群がるような行動は、中国人観光客の専売特許となりつつある。日本人はもっと人間としての成長ぶりをうかがわせる。このまま続けば、それは日本にとっての財産になるだろう。長年、経済大国を続け、「衣食足りて礼節を知る」時となったのだ。

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