Japan and World Trends [日本語] 日本では自分だけの殻にこもっているのが、一番心地いい。これが個人主義だと、我々は思っています。でも、日本には皆で議論するべきことがまだ沢山あります。そして日本、アジアの将来を、世界中の人々と話し合っていかなければなりません。このブログは、日本語、英語、中国語、ロシア語でディベートができる、世界で唯一のサイトです。世界中のオピニオン・メーカー達との議論をお楽しみください。
ChineseEnglishRussian

世界はこう変わる

Automatic Translation to English
Automatic Translation to English
2010年4月 3日

中央アジアを理解するために

(以下は、ユーラシア研究所発行の『ロシア・ユーラシア経済』4月号に寄稿したものです)

「中央アジア」はユーラシアの失われた環
                                           河東哲夫

ユーラシアはもともと一つ
「中央アジア」と言うと人はなぜか、この未知の地域をそこだけ切り離してつきつめて考えようとするか、または「ああ、あそこは知らないところだ。イスラムで不可解なところだ」と思うだけで忘れてしまうかだ。僕もそうだった。だがウズベキスタンに2年間住んでみると、思考の枠はぐっと広がった。中央アジアは、広いユーラシア大陸の真ん中にあって(囲碁なら天元の位置だ)、我々が学校でまったく別物のように教わった東の中国、西の欧州文明を糊のように結びつけ、「ユーラシア」という広大な大陸が実は一体のものとして発展してきた世界の歴史を如実に感じさせてくれるところだったのだ。

ユーラシアは言うまでもなく一つにつながった陸地だし、馬も車輪も古来からあるので、東西南北の文化には実は共通したところが数多い。ある時、ウズベキスタンで休暇を取って、イスタンブールに行ったことがある。東ローマの首都コンスタンチノープルだったこの古都の海辺に立つ。右手には紺碧のマルマラ海が陽光に5月の波をきらめかせ、左手には両脇が絶壁の河のようなボスポラス海峡が黒海の方へと延びていく。その高さ五十メートルはあろうかという空中にボスポラス大橋が白い雄姿を浮かべ、千二百万人都市の大動脈として車の往来が絶え間ない。イスタンブールの住宅地・市街地はこの橋を挟み、西は黒海のあたりまで、東は「アジア」と分類されるアナトリアに深く入り込んでいる。

そのことが示しているように、この地域は古来、東西の境目と言われてきた。だが、ボスポラスの東と西は、それほど違うのだろうか? 僕がこのイスタンブールで買った、錦織のようなネクタイがある。まるで日本の錦織と同じだと思っていたが、ある時ガンジス川のほとりの聖地ベナレスに行ってみると、その薄暗い曲がりくねった路地の奥はまるでテクスタイル・デザインの宝庫といった趣の織物問屋が並んでいるのだが、その問屋のひとつで出会ったのがまた「日本の錦織とそっくりの」織物だったのだ。

つまり中近東、中央アジアは、西欧・ロシアの植民地主義によって分断されるまでは、西はモロッコ、トルコ、東は中国の新疆地方、南はアフガニスタン、パキスタンはもちろん、インド北部にまでがほぼ単一の「オリエント文明圏」と称しても差し支えないほどの文化的共通性を示していたのである。そしてこの地域は、「大航海時代」までは西欧をしのぐ文明と力を有し、中国、ヨーロッパ双方に影響を与えていたのだ。よくイスラム、イスラムと言って、あたかも後進地域であるかの認識が横行しているが、ここはメソポタミヤ、エジプト、インダス文明の直系の地であり、イスラム教とは古来の習俗と宗教を取り入れてやっと七世紀になって現れたものなのである。

古代インド北部を支配してリグ・ヴェーダ等を作り出したのはペルシャ系人種だったし、16世紀のムガール王朝を創始したのは北方から侵入したウズベク族の王子バーブルだった。彼はチムール大帝の子孫であり、モンゴル系、トルコ系などの混血と思われる。アフガニスタンは今では部族が相争う後れた地域と思われているが、モンゴル軍が侵入して灌漑施設を破壊するまでは、この地域には豊かな農耕文明、文化が花咲き、今でもヘラートには大きなモスクがあるのだ。

四千年、五千年の歴史を誇る中国も、現在の広い版図を確立したのは東北の方から侵入した女真族の作った清王朝で、その昔中国を統一したとされる秦の始皇帝の家柄は、西域諸民族の血統に強くつながる。そして元はもちろん、中国の王朝は隋も唐も西域諸民族の血統を強く引いていて、それは現在の中国人の血、そして文化にも深く入り込んでいるのだ。北京の故宮の裏には北海、西海などが広がるが、これは元朝のフビライが作った人造湖で、運河を伝わっていくと南の杭州に至る。元朝当時、杭州の港にはペルシャの船がやってきていたそうで、その異国の積荷は北京の北海の畔で陸揚げされていたらしい。

その北海の瓊華島の頂上には、大きな白い塔がたっている。これはチベット仏教を信仰していた清の順治帝が建てたものなのだが、その下の斜面にはいくつかの御堂がある。その一つには、ラサのポタラ宮を建てたダライラマ五世の像が鎮座している。これは清の初期、女真族がまだ中央集権的な帝国を作り上げるに至らず、モンゴル、チベットと国家連合の形を取っていた頃の記念碑とも言っていいものだ。

つまり現在の中国地域の文明は、西域のソグド人(現在のウズベキスタン、タジキスタン)、ペルシャ人、そして遊牧諸民族(モンゴル系、トルコ系など)がいわゆる漢民族と一体となって育んできたものなのである。そして漢民族というのも日本人と同じく、実は多数の人種・民族が混血した結果であって、「アメリカ人」よりは人種的な実体はあるにしても、やはり相対的な概念なのだ。

唐の時代の反乱で名高い安禄山を漢人だと思っている人は多いが、姓の「安」は中央アジアの出身者に多いものだし、名の禄山はウズベキスタンでも「ロフシャン」という名前が多いように、ペルシャ語で「光」を意味する言葉なのだそうだ。安禄山はソグド人とウィグル人の両親を持っていたから、このような名前を持っている。「ソグド」という名称は今の世界ではもはや使われていないが、唐の首都だった西安の郊外からは当時の唐宮廷に仕えたソグド人貴族(要するに唐王朝の高級官僚)の墓が次々と発見されているし、現在のウズベキスタン、タジキスタン等にはソグド人の子孫達が今でも生きている。

西欧諸国がその文明の源と称する古代ギリシャやローマ帝国も、似たような状況にある。一九世紀の産業革命で急発展した西欧諸国は、自分達の優越性を証明するために、古代ギリシャ文明の歴史をあえて捻じ曲げた。「どこから来たかわからないインド・ヨーロッパ語系白人が」、周囲の「後れたアジア系の専制的文明」とは全く別個に「進んだ民主的な」ギリシャ文明を作り上げたことにしたのである。

しかし近年の研究では、ギリシャ文明もエジプト、メソポタミヤ、フェニキヤなど先行の、オリエント・地中海文明のいわば辺境に存在するもので、ギリシャ神話の神々の多くは現在のトルコなどの土俗の神々であっただろうことが明らかにされつつある。アテネの「民主性」は実は限られた貴族達の間だけのもので、居住者の絶対多数は奴隷だったのであるし、当時発見した付近の銀山から得た富で大艦隊を作り上げたアテネは周囲の都市国家を従属させ、侵略戦争を繰り返す危険な存在だったのだ。

日本人はまだ西欧へのコンプレクスから抜け切れずにいて、その証拠に中世西欧のルネサンスもまるで真空から湧き出たように、「進んだ西欧だからひとりでに」現れたものだと思っている。だが既に何人かの学者が指摘しているように、ルネサンスの背景となったイタリア諸都市の繁栄は、東南アジアにおける香辛料生産の急増や、モンゴルのオリエント統一――広い地域が無関税、一つの市場になった点では、現在のEU拡大とも似ている――による物流の急増によるものでもなかったのか? 
ユーラシアはもともと一つであり、諸文明は中央部のオリエントの介在ぶりを知ることなしにはその実体を知ることができないのである。

中央アジアをめぐる千の誤解と思い込み
日本も含め、世界の国々は数々の誤解と思い込みに取り囲まれている。だが中央アジアの場合その度合いが甚だしく、この地域を理解することを益々難しくしている。例えば「イスラムだから怖い」と思って観光に行くのをやめれば、それは日本と中央アジアの間の関係の発展をそれだけ後らせるのである。

(「砂漠」だけではない。古来の文明の一つの中心)
「中央アジア」と言うと、我々はまず「月の砂漠」のメランコリーな旋律とともに、「シルクロード」という使い古された、センチメンタルな言葉を思い浮かべる。。砂漠の中に小さなオアシスがあり、その畔のヤシの木にはラクダが何匹もつながれて、白いゆったりした民族衣装姿の隊商が横になってゆっくり水タバコを吸っている―――これが中央アジアやシルクロードの典型的イメージではないか? そしてカザフスタン、ウズベキスタンのように語尾に「スタン」がつく国々は、アフガニスタンとの連想で何となく怖い国と思われがちだ。だが、例えばウズベキスタンの首都タシケントは、その威容と現代性で外国人を驚かす。東京の山手線の内部に匹敵する面積に、人口250万の近代都市が広がっている。そして地方の町に行っても、アメリカ中部の地方都市程度の構えは備えているのだ。

そもそも中央アジアの文明は、天山、崑崙両山脈から流れ出るアム河、シル河という大河(両方ともアラル海に流れ込む)の間に広がった広大な農業地帯を中心に、非常に古い時代から存在するものである。ペルシャ、ギリシャ、アラブ、トルコ、モンゴル、ロシアとこの地域の支配者は移り変わったが、中世のサマルカンド、ブハラは学問、文化の一大中心地だった。ここでは古代ギリシャの学問が保存、発展させられ、哲学、天文学、医学、数学などは西欧の近代化に重要な役割を果たした。ルネサンス期の西欧に招聘されていった学者も、何人かいる。

(こわいイスラム地域?)
中央アジアは、確かにイスラム地域である。しかし、中央アジアにイスラム教が伝わってきたのは比較的遅く、しかもソ連時代には「宗教はアヘン」と言われて弾圧されたから、イスラム教会の社会に対するグリップは強くない。中央アジアの大都市でチャドルをつけた女性を見かけることはほぼ絶無だし、ロシア人に教え込まれたのか、この地域の人々はウォトカにも滅法強い。もともとこの地域はワイン文化で、中世の詩人達はワインを讃える詩を無数に残しているくらいなのだ。
イスラム教徒のうちテロに走る過激派は、一握り以下である。中央アジアで彼らがテロ事件を起こす確率は、西欧の大都市での確率より低い。それにイスラム教は、アラブの民間信仰・習俗の集大成のようなもので、得体の知れない気味悪いものではない。イスラム社会が発展させた法体系シャリーアは都市商業文明を基礎としたもので、一般に思われているような原始的なものではない。中央アジアでも、イスラム教は信用とか誠意が大切であることを教える基本的な道徳集として生活に定着しており、狂信的なものではないのだ。

(ロシアの一部?)
日本では、中央アジアは今でもロシア人の国なのだろうと思っている人がいるが、それもひどい誤解だ。ロシア人は19世紀に植民地支配者としてやってきたのであり、中央アジアでは今でも圧倒的な少数派である。ウズベキスタンでは大多数の者は浅黒い肌の色で、容貌は様々な民族が混血した結果、ヨーロッパ系ともアジア系とも言いがたい一種独特のものを持っている。他方、キルギスタンやカザフスタンのように古来、遊牧民族が支配していた草原地帯では、我々とも見分けがつかないモンゴル系の人々が多くなる。
何を基準にして言っているのかは知らないが、ウズベキスタンだけでも百以上の民族が住んでいると言われる。この国で使われる言語は主なものだけでもウズベク語、タジク語、カザフ語、ロシア語、英語、韓国語といった具合であり、歴史をひもとけば公文書がペルシャ語で書かれていた時代もあり、この地域を研究する外国人にとっては頭痛の種になっている。
単一民族による国民国家という神話に馴れた日本人には、中央アジアというのは訳のわからないところかもしれない。しかし、すっかり多民族化したアメリカの大都市の街頭風景を思い浮かべていただけると、少し納得が行くだろう。

歴史の負の遺産――社会主義集権経済の桎梏

中央アジアというとシルクロードのイメージが先行し、客観的な理解を妨げている。中央アジアのうち水に恵まれた南半分は古くから大農耕地帯であり、整然と耕されたウズベキスタンの畑に見られるように、ものづくりの伝統はある。

鉄鉱石、石炭の産地に近いカザフスタン北部は製鉄の一大中心になっているし(現在ではインド人の製鉄王ミタルが進出している)、ウズベキスタンは大型輸送機イリューシン76を製造するチカロフ工場や、中央アジア一帯にトラクターを供給する大工場を有している。フェルガナには世界でも有数規模の精油所があるし、タジキスタンには安価な水力発電を利用したアルミニウムの大精錬工場がある。そしてその首都ドシャンベには紡績機械を製造する工場や、戦略ミサイルのジャイロに使う水晶発振子を磨く工場もあった。総じて中央アジアの都市部は、マルクスの言う「アジア的後進性」を示すというよりは、都市の体裁やインフラが一応整った中進国的様相を呈している。そしてソ連は、高い教育水準という良き遺産を残しもした。

だがそれでも、中世の「汗」をトップとする専制的な都市国家、そして帝政ロシア、専制的社会主義のソ連の支配の下にあったことは、多くのトラウマを中央アジアの社会に残している。
数字から見ると、中央アジア諸国の経済水準はさほど高くない。石油景気に沸くカザフスタンだけは一人当たりの年間所得が二千七百二十四ドルと(二〇〇四年)、中央アジアの中で唯一ロシアの水準を抜いているが、その他はウズベキスタンが四百六十一ドル、タジキスタンが三百二十三ドルと低いものがあり、未だに外国の無償資金援助の対象国となっているほどである。それに加えて、ソ連型社会主義集権計画経済が政府の機構や国民のメンタリティーに大きな痕を残しているから、工業化そして経済成長への道はさほど簡単ではない。

市場経済では、何をいくつ、何を使って、いくらで誰に売るか、という経済活動の基本については、私企業がそれぞれ計画を作っている。年度の途中で市場での需要が変われば、企業は原材料をスポット市場で仕入れたりして増産、または減産をはかることができる。ところがソ連の企業は利潤ではなく、「政府から命じられた」計画を達成することを最大目標として動いている。これは消費財の生産には根から向いていない体制なのであり、原材料の配分もすべて年度毎に政府が定めるから、スポット市場も存在しない。

言ってみれば、市場経済は常に「余剰」の存在を前提に動いているが、計画経済ではすべてのものが余すところなく割り振られているから、多くのものが「不足」気味になる。それに「資本家による搾取を防ぐ」との名目で、付加価値を生み出すあらゆる生産手段は国有ないし集団有とされているから、競争などが起こりえるすべもない。経済は強い独占体質の下にある。

このように全ての富の源泉を一握りのエリート達が差配している社会では、何が起こるか? まず、国民は「お上」に対して依存心を持つようになる。アパートなどの不動産、車などの高価な動産については「自由に買う」ことのできる市場はごく規模が限られていて、大半は当局からの割当で入手することになる。夏休みの海の家や山の家の予約も、所属企業の労働組合が差配している。こうして国民は生活の大部分を当局に差配されて生きているが、それはまた究極の社会保障国家とも言え、呑んだくれていても解雇されることはなく、家賃、光熱費の類は名目だけで、メーターさえろくについていなかった。愚者の楽園と言われた所以である。

我々は、旧ソ連諸国はこのような社会主義を投げ捨て、今や市場経済の民主主義国になったのだ、とナイーブにも思い込んでいる。しかし、中央アジアも含めた旧ソ連諸国の実態はそんな甘いものではない。どこの国民が「改革」のためだと言われただけで、水道や電力料金の大幅値上げを甘受するだろうか? そして付加価値を生み出す工場、農園のすべてを国が所有している経済を、どうやって民営化できるというのか? 一社や二社ならいざ知らず、国中の企業を一気に民営化することは不可能だ。まず、それだけの資金が国内にはないだろう。それに市場経済の中で企業を経営するノウハウと能力を持った人材が、あまりいない。

だから、市場経済化とカップルで行われる「民主化」は、利権闘争の臭いを帯びることになる。これまでは国営資産の差配から締め出されてきた二流のエリート達が、時には外国からの資金を受けて「野党」なるものを作り上げ、議席を得ては国営資産の切り売りに首をつっこもうとする。議会はこれら群小政党が入り乱れ、収拾がつかない状態となる。九十年代初期のロシアがまさに、このような状態にあった。

一九九一年の独立から二〇年――「国家」建設の状況は各国まちまち
中央アジアはウズベキスタン、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタンの五カ国から成っているが、実はこの五カ国が独立国として存在するのは史上、現在が初めてなのである。一九世紀半ばロシアに征服されるまでこの地域は、あるいはペルシャ帝国、チムール帝国等、大きな帝国の一部だったが、または都市国家が並立する状態だったのだ。

ソ連の時代、モスクワの中央から中央アジアの五つの連邦共和国の首都にある権力、そして地方の権力の間は共産党を軸に見事な垂直ラインを形成していた。それは、モスクワが地域の利権構造の上に乗る構造だった。だからソ連が崩壊して独立しても、モスクワという環が消えただけで、各共和国の利権・統治構造は新しい独立国として動き出せるモジュールのような感じになっていたのだ。それでも、ソ連時代のウズベキスタンの場合、外務省は三〇名内外の人数しか持っておらず、それを一〇年くらいで三〇〇名程に増やし、独立国としての体裁を整えていったのだ。

五カ国の権力はそれぞれ、地縁・血縁をもととする「クラン」のバランスの上に成り立っているが、その強弱の度合は各国において異なるし、経済発展で先行する国ではクランの意義は薄れてきている。
当面の政治情勢を述べると、中央アジア五カ国ではいずれも、当面大統領選挙は予定されていない。二〇一〇年一月現在の時点では、おそらく最も安定しているのがウズベキスタンであろう。強権的ではあるも、政府主導の下に工業化を粘り強く進めてきたカリモフ大統領の政策は、世界が金融景気に沸いていた数年前には保守的に見えたが、現在ではその着実さがいい意味で目立つようになっている。人口で二番目に大きいカザフスタンはこの一〇年、ロシアと全く同じ石油景気で沸いてきたが、既に二年以上サブプライム危機と原油価格暴落のダブルパンチを受け、自律的経済回復への道は見えていない。

トルクメニスタンは天然ガス大国であるが、世界での天然ガス市況の急落を受け、これまでの最大の顧客であるロシア(ロシアは自分のガスは西欧に出し、トルクメニスタンのガスを安く買いつけてウクライナに割引価格で売っていたのである)から引き取り量を大幅削減され、中国への輸出に依存せざるを得ない羽目に追い込まれている。キルギスはバキーエフ大統領が権力基盤を固めているが、経済状態が悪く、国内の利権闘争は激しい。タジキスタンも経済力に乏しく、今後も自律的発展能力を身につけるかどうかわからない。

こうして中央アジアは当面、各国まだら模様の中で大崩れはしない、しかし特定の方向で何かがまとまって大きく進むこともない、という状況で推移していくだろう。他方アフガニスタンではタリバン勢力が復活しつつあり、彼らが中央アジアのテロ勢力への支援を強化すると、ウズベキスタン、タジキスタン、トルクメニスタンがその脅威にさらされやすくなる。その場合これら諸国は、民主化、市場経済化の改革をいっそう控え、強権によって治安と安定を維持する方向を取るだろう。

中央アジアの天然資源
中央アジアは天然資源の宝庫である。石油を大量に輸出できるのは今のところカザフスタンだけだが、現在の生産量は世界全体の二%、埋蔵量は世界の三・五%、に及んでいる。一見大したものではないように見えるが、IEAが二〇三〇年の石油需要は現在より五十三%増加するとの見通しを発表している中、カザフスタンのような新規油田が果たす役割は数字以上のものがある。既存油田の生産量は、もう大幅には増えないからだ。天然ガスを大量に輸出しているのは今のところトルクメニスタンだけだが、これからはカザフスタン、ウズベキスタンの天然ガス輸出も増えると見込まれている。中央アジア全体の埋蔵量は世界の四・三%、生産量は世界全体の四・八%に達する。

中央アジアの石油、天然ガスについては、日本企業がこれまで何度も参入を企ててきたが、そのうち成立したものは僅かしかない。中央アジア諸国側が契約の義務を遵守するかどうかについて確信が持てないとか、油質が合わない、あるいは取引が不透明でコンプライアンスを確保できないとかが理由となって、実現しにくいようだ。当面、日本企業はドリル、パイプライン用の鋼管やコンプレッサー、LNGプラント、そしてウズベキスタンなどに豊富にある褐炭を使った石炭火力発電設備などの輸出を心がける方が現実的だろう。

中央アジアの石油、天然ガスを搬出するパイプラインがどの国を通るかは、真に地政学的な問題だ。これまでほとんど全てのパイプラインはロシア領を経由していたが、最近中国向けのものが相次いで完成しつつあり、中央アジアのエネルギー資源に対するロシアの支配力は低下した。
 
中央アジアはウラン鉱石の宝庫でもあり、カザフスタンの確認埋蔵量は世界第二位である。日本の企業はこのウラン鉱石を早くから確保していたが、〇九年央にはジャキーシェフ原子力産業公社総裁が横領容疑で逮捕され、この地域におけるビジネスが政治的抗争に巻き込まれやすいことを如実に示した。

中央アジアの経済的見込み
中央アジア五カ国を合わせると、人口は約五千万人、GDPは約七兆円の規模を有している。日本はこの十年程の間に総計二千八百億円のODAを供与しているから、その分だけでもかなりの物資、サービス需要があることになる。五カ国の発展程度はまちまちであり、経済の市場化の進展度もまちまちである。

しかし一般的に言えることは、中央アジア諸国は民営化の初期段階にあるために所有関係が不透明であり、経済活動に当局が恣意的に介入することも未だに多いことが指摘できる。投資、輸出入案件の条件が上部からの介入によって契約後に変えられてしまう場合もある。
次に、事業拡大よりは保身と私利に身をやつす政治家、役人の類と商談をやることになる場合が多いということも指摘できる。これは、最近世界銀行の報告書がロシアについても指摘した、腐敗の問題のことである。邦人企業にとってみれば、それはコンプライアンスの問題だ。現地のエージェントを間に立てる等、腐敗への関与を避けながら商談を進める手はある。しかしエージェントは信頼できないし、彼ら自身、国内の諸利権の間で翻弄されつつやっとのことで商談をまとめている。だからその商談は大規模なものではあり得ず、しかも不確実である。

また中央アジアの経済はソ連の中に組み込まれていたために、現在でもロシアとの関係には緊密なものがあり、これを無視して案件を進めるとリスクが生ずる。例えばタシケントの航空機工場はロシアからの部品搬入なしには成り立たないし、タジキスタンのアルミ精錬工場もロシアを経てのウクライナのボーキサイトの搬入、そして窓サッシ等の製品のロシア市場での販売がなければ成り立たない。中央アジアの送電網や鉄道網はロシアと一体のものとして建設されていて、中央アジアとロシアの公社の間の関係には緊密なものがある。だから、例えば電力関係の案件の場合、中央アジアがロシア企業から有利な条件を引き出すための当て馬として日本企業を使ったり、中央アジアとロシアの企業が裏で手を組んで西側企業から資金だけ巻き上げようとすることがあり得るということである。

中央アジアをめぐる列強の「グレート・ゲーム」? 
否、五すくみ・六すくみが実態
何物もさえぎるものがない草原が広がるユーラシア大陸では古来、武力に優れた者が都市国家を束ねては広域の帝国を作ってきた。アレクサンドロス大王、イスラム、チンギス・ハン、オスマン・トルコなどがその代表例で、西欧が範とあおぐローマも武力で作られた帝国だ。ロシア帝国、そして明王朝は、モンゴルによる支配をいわば簒奪して作られた帝国である。

これら帝国が崩壊するたび、その領域は力の真空地帯となって列強の介入を呼び、情勢を不安定化させてきた。第1次世界大戦はオーストリア・ハンガリー帝国、オスマン帝国の双方が崩壊する中で起きたし、1991年のソ連崩壊はウクライナ、グルジア等コーカサス諸国、中央アジア諸国に至る広大な地帯で、大国間の鞘当を今に至るまで引き起こしている。

ソ連の崩壊は他面、周辺地域における古い文化・経済上のつながりを復活させた。19世紀、ロシア帝国が中央アジアを植民地化し、それがソ連時代まで続いたことによって、オリエント文明圏は新疆ウィグル、ロシア帝国内の中央アジア、大英帝国のインド、オスマン帝国下の中近東等に分断されることになったのだが、ソ連の崩壊によって、この地域の枠組みは再び流動化したのである。従って我々は、「中央アジアはロシア文化圏の一部で、ロシア人の国々」という幼稚な誤解から早く卒業し、この「中央ユーラシア」とも呼ぶべき地域を中央アジア、アフガニスタン、パキスタン、インド、イラン、中国新疆地方等との相互連関の中で捉えていかなければならない。「中央アジア」、「南西アジア」、そして中近東と個別に分けて考えることも、もはや適当ではないだろう。
ソ連崩壊のあとの中央アジア地域では、独占的な影響力を行使できる国がなくなった。中央アジア諸国は西側、ロシア、中国を天秤にかけ、最大限の利益を引き出すゲームを続けている。だが中央アジア諸国は、ASEANのように団結して国際的影響力を高めようとする姿勢は見せていない。そのためこの地域で独占的指導力を発揮できる勢力はなく、言ってみれば五すくみ、六すくみの状況にあるということだ。
ここで、この地域で重きをなす諸勢力の特徴をまとめておこう。まずロシアだ。

(ロシア)
ロシアが中央アジアを植民地化したのは、一九世紀のことである。その後ソ連時代にまで至る統治は、プラスももたらした。第一に、都市国家の汗(ハン)や大地主、そしてイスラム教会による権威主義的支配に慣れた地元民の習俗に、いくらかの変化がもたらされた。イスラム教会は権力を奪われ、女性の地位が向上した。都市においてはチャドルは着用せず、エリート階級の中からは政府の枢要な地位にのぼる女性も現れた。教育は大衆に普及し、ヨーロッパの先進的な知識の一端が浸透した。行政機構が整備され、経済・社会インフラも整備された。農業は綿花栽培が過度に重視されたが、第二次大戦を契機に多数の工場が中央アジアに立地して、工業化も進んだ。

 他方、ロシア、ソ連による統治のマイナスもまた大きい。農業では綿花のモノカルチャーが押し付けられたし、工場も文化・スポーツ施設の多くもロシア人など「白人」の世界だった。そして既に述べたように、土地も含めてすべての生産手段を国有化し、国の隅々までをあたかも一つの会社のように把握して運営するソ連型社会主義経済は、今に至るも中央アジア諸国の改革を阻害している。

一九九一年ソ連が崩壊してロシアが混乱にあえぐ中、旧ソ連圏諸国は経済的利益を西側に求めてロシア離れを強めた。その遠心力は今でも続いている。だがEUから遠い中央アジア諸国にとってロシアの軍事力は相変わらず最後の拠り所だし、原油価格急騰で五千億ドルもの外貨を溜め込んだロシアは経済的にも十分頼りになる存在として復活した。かつては「モスクワ」の威光の下に特権的地位を享受し、モスクワこそ文明の中心と今でも思い、西側流のオープンでリベラルなやり方に共感よりも反感を覚えるこの地域のエリートの中には、モスクワを根拠地として事業を展開する者も多い。他方ロシア人には、中央アジアを自分達に残された最後の勢力圏と見るマインドが強く、中央アジアを「囲い込んで」利益を引き出してやろうと構えている。

だがロシアは、いくつかの限界を持っている。一つは、アフガニスタンに兵力を派遣するつもりがないために(一九七九年の侵入で失敗したトラウマが残っている)、タリバンを脅威ととらえる中央アジア諸国に万全の安全を保障してやることができない。だからロシアの肝いりで作られた「集団安全保障条約機構」(CSTO。ロシア、ベラルーシ、アルメニア、カザフスタン、キルギス、ウズベキスタン、タジキスタンがメンバー。冷戦時代のワルシャワ条約機構の小型版)も、その実体がなかなか充実しない。

中央アジアにおけるロシアの地位は二〇〇八年までは回復を見せていたが、金融危機以降はロシアの停滞と中国の伸長が目立つ。中央アジアのエネルギー資源は、もはやロシアに牛耳られてはいない。

(米国)
米国は、冷戦終了後、中央アジアにさしたる関心は示さなかった。「ここはロシア、中国の持ち場である。米国は彼らの既得権を侵すことなく、相応の関係を維持していくにとどめる」というのが、筆者が現場の米国外交官から聞いた話である。
9月11日事件以降中央アジアは、アフガニスタン作戦の足場としてにわかに重要性を増した。だがこれまでさしたる経済援助もしてこなかったから、米国の中央アジアにおける地歩は弱かった。ロシアが憤慨するのを尻目にウズベキスタンのハナバード、キルギスのマナスで基地を借りたのはいいが、日本とは逆で米国側が基地使用料を払ったのだ。しかもウズベキスタンからは2005年に撤退を迫られ、半年で完全撤退している。キルギスでも基地賃貸料交渉がもつれ、バキーエフ政権から立ち退き要求をつきつけられたこともある。

なおブッシュ政権の時代、米国の一部勢力がこの地域の民主化、市場経済化を急いだあまり、この地域の諸国は米国に「レジーム・チェンジ」をはかる危険な国、とのレッテルを貼るに至った。オバマ政権はこの面では穏健な政策を標榜しているが、中央アジア諸国は、米国に対する警戒心をまだ完全には解いていない。

(中国)
中国は数年前まで、中央アジアには積極的な関心を示していなかった。歴史上も、中国諸王朝の軍がフェルガナ盆地を越えて中央アジアに攻め込んだことはない。中国にとっては、とにかくこの地域が落ち着いていて、新彊地方のウィグル族独立運動を支援するようなことがなければよかった。ウィグル族の独立運動を支援しかねない米国よりも、ロシアが中央アジアを支配している方が望ましいとさえ思っていただろう(但し中国はインドに対抗することも念頭においてパキスタンと緊密な関係を保ってきており、新彊地方からはハイウェーを通ってペルシャ湾入り口に近いグワダール港に出ることができる)。

だがこの数年、中央アジア諸国に対する中国の出方は非常に積極性を強めており、中央アジアにおける主要なプレイヤーとしての地位を固めたかに見える。カザフスタンからは原油を数年前から輸入していたし、二〇〇九年十二月にはトルクメニスタンの天然ガスを輸入するためのパイプラインを稼働させた。カザフスタンからも天然ガスを入れるため、二本目のパイプラインを建設しようとしている。そしてタジキスタンにおいては道路、トンネル等インフラの建設に低利借款をつけて実施中である。アフガニスタンで大型銅山開発を進めようとする中国にとって、タジキスタンは新疆地方への格好の運輸ルートなのかもしれない。
ロシアは、このような中国の動きに心やすからぬものを感じつつも、中国と同じことを行えるだけの実力を持たないし、中国とことを構えるだけの国力も持っていないため、これを呑まざるを得まい。

(インド)
インドは、パキスタン、中国に対抗していく上で、中央アジアに若干の意味を見出しているが、本格的対応をするだけの力は持っていない。パキスタンはアフガニスタンのタリバンを支援しているため、中央アジア諸国からは警戒されている。イランは中央アジアと同じイスラムだが、攻撃的なシーア派であるために、警戒されている。ただしペルシャ系人種が支配的なタジキスタンにおいてイランは、90年代内戦に加担した上、現在ではインフラ建設支援等を通じて地歩を築いている。

(トルコ)
トルコはソ連崩壊と同時に、トルコ民族の故地中央アジアに大トルコ文明圏を復活するチャンスと見て進出をはかったが、そのやり方が性急、かつ自分の利益追求中心と見られたために、中央アジア諸国の心をとらえるには至っていない。

(NATO)
NATOは米国に引き込まれてアフガニスタンで活動しているが、中央アジアについては自分に関係のある地域とは見ていない。ここは欧州文明の範囲外だからNATOによる安全保障措置の埒外にあり、EUが外交、通商関係を展開していればそれで十分、というのがNATO側の立場である。但しアフガニスタンの麻薬が新彊地方を通って中国に大量に流入しているため、中国は上海協力機構を前面に立ててこの面でのNATOとの協力を申し入れ、NATOもこれに応じようとしているようだ。

中央アジアの強化は日本にも利益
中央アジア問題の本質は、ソ連崩壊の後始末なのであり、その点、現在に至るも世界の紛争の種となっている地域を生み出したオスマン・トルコ帝国崩壊の轍を踏ませないようにしなければならない。新しい独立国で大国が無益な勢力争いを起こさないように、中央アジア地域の安全を集団で保障できるように、これら諸国の指導者が自分で国内の経済発展と民主化を推進するように、そうした環境、仕組みを作ることが対中央アジア政策の目標となるべきだ。また中央アジアが将来、ASEANのようにまとまり独自の発言力を持つようになれば、この戦略的な地域において日本外交の得難きパートナーとなるだろう。

中央アジアはユーラシアの真ん中、碁盤に例えれば天元に当たる。ここに布石を置くと、碁盤全体でのバランスが変わってくる。この地域で発言力を失えば、その国はユーラシアの東半分における発言力を失ったこととなる。日本も同じだ。東アジア共同体についての議論で発言力を維持していくためにも、中央アジアとの関係を発展させていかなければならない。政治大国とはみなされていない日本は、あらゆる提携相手を見つけて外交上の力としなければならない。中央ユーラシアにおいてはいわば時を超えて「歴史と組む」と言うか、歴史にこの地域諸国の潜在力を見出し、これが復活するのを助けることで自分も力を得るのだ。

日本は海洋国家である。ユーラシア大陸に死活の利益を持っていないし、海千山千の大国、中小国が入り乱れて利益を奪い合うゲームに加われるだけの経験と機動性を持っていない。大陸に関わろうとした日本は古来、ほぼ全ての場合において失敗してきたのである。従って日本は、ユーラシア大陸におけるゲームに深く関わるべきではないというのも一面の真理である。だが日本外交の主要舞台は東アジアの海洋地域だと言っても、その地域で中国やロシアなど大国が示す力は、後背のユーラシア大陸における彼らの力、地歩を反映したものなのだ。

だとすれば、日本もユーラシア大陸で何もしないということはないだろう。日本が中央アジアでそれなりの地歩を維持していれば、中国もロシアも日本に一目おかざるを得まい。日本が中央アジア、アフガニスタン、パキスタン等で実行してきたODAプロジェクト等、絶対額は対中、対ASEANほどでなくとも、現地では甚大な効果を持つ。この地域の道路網の改善などを進めているアジア開発銀行(ADB)も、日本は米国と並んでその最大の拠出国である。日本はこの地域の情勢をかなり変えることができる存在なのである。

5カ国を合わせても人口5,000万人、GDP7兆円にしかならない中央アジアは、域内協力を強化しなければ大国の草刈場になるだけだ。中央アジア諸国と日本の利益は一致している。中央アジア諸国が独立と団結を強化することが、日本には政治・経済両面でのプラスとなる。植民地主義は復活させてはならない。中央アジア諸国の安全は、1974年欧州がCSCE会議でしたように関係するすべての国が保障すればいいのである。中央アジアの独立性の維持と発展、中央アジアの結束の強化は、これら諸国の利益にだけでなく、日本外交の利益にもぴったり一致する。日本はこの地域で、「私心」を持たない仲介者の役割を果たすのに最も適した大国なのである。

それはユーラシア中央部での「プレイヤー」と言うよりは、むしろ「バランサー」と言うに近いものだ。政治的・軍事的野心がない、しかしかなりの国際的地位を有する国として、この地域諸国の自立、発展を助けていくことが日本外交のあるべき姿なのだと思う。

なお、旧社会主義諸国と言うと我々はすぐ、民主化・市場経済化というスローガンを条件反射のように口に出すが、民主化は利権闘争、市場経済化は格差を助長するので、短期的には社会を不安定にする、ということを念頭に置かなければならない。そして中央アジア諸国の国民の大多数にとっては、民主主義より明日のパンが公平に分配されることの方が大事なのだ。かと言って、現在の社会構造のままで我々が援助を行えば、既得権益層の権力保持を助け、改革を遅らせてしまうので、バランスの取れた対応が必要である。

中央アジアをASEANのように

日本は2004年、「中央アジア・プラス日本」と称して、中央アジア諸国の外相などが一堂に会して日本と話し合うフォーラムを樹立した。中央アジア諸国がASEANのように団結を強化するのを助けたいという意図が、そこにはあった。仲が悪いと言われる中央アジア諸国も、権力保全のためには協力するし、また鉄道、電力、郵便などの実務では緊密な連携が日常的に行われている。中央アジアがASEANのようになることは、時間がかかるとしても決して夢ではない。

その後「中央アジア・プラス日本」に類する動きは米国、EUも別個に開始した。従ってロシア、中国なども包含してこの地域の経済発展や安全保障を話し合う、アジアで言えばARF(ASEAN地域フォーラム)、欧州で言えばかつてのCSCE(全欧安全保障協力会議。1974年。米国、ソ連も加わって、欧州の国境の現状を認め、信頼醸成措置を定めた)のようなものを創っていってもよかろう。
但し関係諸国が口先だけで中央アジアの安全を保障しても意味は薄いのであり、実際の脅威をあらかじめ減殺しておかなければならない。それは何よりアフガニスタン情勢の安定化である。また経済面においては、道路整備や電力網整備等、中央アジア諸国の経済関係緊密化に資するような案件にODAを集中的に振り向けていくことも必要だ。
なおどのような「戦略」を考えるにしても、現地の利権・人脈構造を無視したものは短命に終わる。また美しい戦略を提案しても、日本政府にロシア語や現地語をマスターした要員が足りない現状では、相手を説得したり、スキームを運営していくこともできはしまい。「戦略」は自分の身の丈も見て、作らなければいけないのだと思う。                               

欧州にとって上海協力機構は、日本にとっての東アジア共同体のようなもの?
二〇〇一年、ロシアと中国が音頭を取り、中央アジア四カ国(五カ国から永世中立国のトルクメニスタンを除いたもの)を語らって「上海協力機構」(SCO)という曖昧な組織を作り上げた。中露両国は中央アジアを抱え込むことで、この地域に米国が過度に進出するのを防ごうとしたし、中央アジア諸国は米国との関係を進めつつも、自国の権威主義的政権を米国に「レジーム・チェンジ」されることがないよう、中露に保険をかける姿勢を見せたのである。

だが中国が対米関係緊密化を強めるにつれ、SCOの実体は一向に進展を見せないこととなった。ロシアはSCOを軍事協力機構としたい姿勢を見せたが、米国を過度に刺激するのを恐れる中国の抵抗で果たさず、またSCOをベースに経済協力を中央アジア諸国に対して進めようとしても、中国が自国の旗の下に多額の借款を供与して援助を進めるために、この面でもSCOは実質的な進展を見せていない。日本の一部では、SCOを通じないと中央アジア各国との関係が進めにくくなるのではないかと懸念する向きもあったが、中央アジア各国政府との直接の交渉に何ら困るところはなく、しかも政府はSCO事務局との接触は維持してきた。

だがユーラシア大陸における国際政治は、伸びる中国に対してどう合従連衡するかが当面の主眼になりつつあるようだ。最近欧州の専門家と話したところでは、欧州は例えばNATOやEUとSCOとの関係を樹立し、「中国を欧州との多国間の話し合いの場に引き出す」ようにする、という発想が芽生えている。これは、日本が東アジア共同体に寄せる思惑と類似したところがあり、欧州にとってSCOは東アジア共同体が日本にとって有するのと同じような意味を持ち始めているのかもしれない。欧州がそのように動く場合には、日本も早めに動いておく必要がある。
(了)
 

コメント

投稿者: 小坂孝典 | 2010年6月18日 14:53

河東先生、ご無沙汰しております。 1月の三思会でお会いしたHSBC証券の小坂です。いつも先生のサイトで勉強させて頂いております。 ありがとう御座います。 私はHSBCグループに勤務しながら本社の動向等に無関心でした。 この会社は中々したたかのようです。 以下のニュースが先程流れておりました。  ①英HSBCが取得するRBSの資産は最大5200万ドル相当②英HSBC:RBSのカザフスタンのリテール金融資産を取得へ
 http://pdf.reuters.com/HKSNews/HKSNews.asp?i=43059c3bf0e37541&u=urn:newsml:reuters.com:20100618:nHKS69Vcb1

HSBCは2011年までに上海での上場を目指しております。

また三思会でお会い出来ればと存じます。

HSBC証券 債券部 小坂

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.japan-world-trends.com/cgi-bin/mtja/mt-tb.cgi/979