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2010年3月17日

「ペレストロイカ」今再び? 3月のモスクワに住んで

「ペレストロイカ」今再び? 3月のモスクワに住んで
2010,3.16
河東哲夫

はじめに
2月下旬から3月まで2週間、モスクワ大学のビジネススクールで講義をしてきた。ほぼ毎夕三時間立ったままマイクもなしで、学生たちのおしゃべりの中をロシア語で声を通そうとして、ひどくくたびれた2週間。今回は大学の寮ではなく、寒くて滑る夜道を歩いて40分もかかる普通のアパートに泊められたので、大変だがいい経験になった。石油景気のモスクワでも、普通のアパートの住人はわりとひどい暮らしぶりで、何より夢も希望もないという風情でいるのが目に付いた。住人は階段でシャツ一枚でたばこを吸い、子供たちがたむろして騒ぐ。それは民主化とか市場経済化とは全く無縁の世界で、それがロシアの圧倒的な基盤を形成している。

そして高物価。昼にロシア人を食事に招いたりすると、メニューの値段をみただけで「しまった」と思い、自分の分はスープとサラダだけですませたりするので、今回はおかげで体重が2キロも減って喜んだ次第。もっとも、一人1000円くらいで好い食事ができる小奇麗なレストランも沢山できているが。

金融危機直後間もなかった昨年3月に比べると、今回ロシア経済は石油価格回復につれて上昇気配、下がっていた不動産価格も回復傾向だ。それでGDPは外面上大きく見え続けるだろうが、政府が膨大な原油輸出税収を使ってしまうので(金融危機以前は「安定化基金」というものを作って過剰な資金が市場に流出しないようにしていたのだが、金融危機以降はこれも使って年金引き上げなどの大盤振る舞いを続けている)、国内はこれからインフレ亢進で「成長の果実が国民には見えない」という状況になるだろう。そしてルーブルのレートが高くなる一方の有様では、「ロシア経済を刷新してモノの輸出も増やす」ことなどできはしない。従って、ロシア経済は世界で石油からの転換が進むにつれて、ジリ貧となるだろう。

今のロシアでは、「民主化や市場経済より秩序と賃上げ」を求める大衆の声をいいことに、元KGBを筆頭とした「官僚たち」が社会にしっかと蓋をして、湯気のゆの字も外にもれない体制を作り上げ、自分達はその中で汚職にまみれていると言われるが、モスクワの心ある人たちはそれにすっかり嫌気がさしている。「君たちは大衆の虜になって、何もできないでいるんだ」と僕が言うと、彼らはうんざりした顔でうなずくのだった。数年前までは面白かったロシアのテレビも、世の中のことすべては茶番、やらせだということがわかってしまったかのように、価値判断というものがおよそ感じられない、魂のない、殺しとかお涙ちょうだいの三文オペラとか、そんな番組ばかり流す。

だが今回、僕の希望的観測かもしれないが、知識人、学生を中心に、忍耐がそろそろ限界に達し、政府の浄化などを求めて自発的な声のうねりが起きる前夜かなという気がしたのだ。ロシアのマスコミでも、「新たなペレストロイカ」などという表題でものを書く者が出てきている。中国などと同じく、誰が組織しているのかわからないが、携帯電話で市民を抗議集会に動員する「TIGR」という組織が現れている。

いくら声を上げても、めったなことでは近代化できないロシア経済。汚職追放は絶対に必要だが、強い野党ができないとそれも無理だ。18世紀から19世紀にかけて英国は腐敗していた議会をかなり浄化したが、それは市民運動の成果と言うより、野党が口をきわめて与党の腐敗を糾弾したからだ。ロシアの場合悪くすると、刷新を求める市民の声は結局80年代末にエリツィンに利用されたように、デマゴーグの乗ずるところとなって、ロシアという多民族国家を割ってしまうことだってあり得るだろう。

「2012年、メドベジェフとプーチンのどちらが次の大統領になるのか」という議論が続いているが、そろそろ頭の切り替え時ではないか? メドベジェフ大統領はリベラルな言辞を弄するが実行が伴わないことで市民に相手にされていないし、プーチン首相は「保守」「KGB系」のイメージが染みこみ過ぎてしまったので、これも時代に合わない。ロシアの友人たちは言下に否定したが、2012年の大統領選挙ではひょっとするとダークホースが賑々しく現れてくるかもしれない。そんなことを思いつつ、2010年3月のモスクワの印象を記してみたい。

外国旅行をやめていない日本人
2月22日出発したが、成田空港は人でいっぱい。特に若い女性が多かった。だが、韓国人だったかもしれないし、地味な服装の中国人の中年女性も多かった。この頃の日本はなぜか女性に占領されたようで、男があまり見当たらない。「内向きになった、外国旅行が減った」と言われる日本だが、月曜という平日にもけっこう外国旅行客はいるのだ。

僕の乗った飛行機は、モスクワ経由ロンドン行きのアエロフロートのエアバス、「ウラジーミル・ヴィソーツキー」号。ソ連末期の吟遊詩人、俳優として国民的英雄だった男だ。僕の小説「遥かなる大地」(筆名 熊野洋 草思社)の主人公のモデルでもある。90年代、アエロフロートがエアバスを初めて購入した頃より、室内のメンテが良くなった。当時はエアバスを買っても、室内のカーペットが毎日ヒマワリ油でもひいているのではないかと思わせるほどすぐ汚れ、トイレの使い方もだらしなかったものだ。ロシアの国力が最低に落ちていた90年代、スチュアーデスまでおどおどしていたものだが、今ではその態度は完全に自然になった。そしてエコノミー・クラスでも、機内食が良い。以前乗ったビジネス・クラスでは(今回はがらがらだった)、フルコースの食事でスープには金片まで浮いていたものだ。


「肌を大根おろしでこすられる」感じのモスクワ
モスクワは僕が行く直前、40年ぶりの厳寒(マイナス20度以下)と豪雪(3日間で70センチ)だったそうで、大通りの両脇にはまだ屏風のようにかき分けられた雪の壁がそびえていた。
モスクワでは、商品の包装がソ連時代とは段違い、西側並みになった。ところが使ってみると、どこかおかしいのだ。生クリームの缶を開けようとすると「へた」が途中で千切れてしまったり、電気湯沸かしから湯を注ごうとするとだらしなく周りにこぼれてしまったり、という調子。そこらじゅう、きらびやかでエレガントな西側商品の広告があふれていても、毛皮の外套を着た一見貴婦人風の女が平気で行列を無視して先頭に並ぶのを見たりすると、西側的なハイカラな広告と公衆道徳の欠落との間のギャップに、肌を大根オロシでおろされているようないらつきを覚える。

「基本的な価値観」がないのだ。共産主義はもうないし、市民社会的価値観も根付いていない。そこにあるのは、90年代からの「市場経済では何でもあり。自分だけ、儲けだけが大事」の世界の成れの果てだ。石油景気で一度煽られ、その後また底に突き落とされたばかりだけに、一種のアンニュイも漂う。それはテレビ番組に顕著だ。僕が着いた翌日が2月23日の軍記念日「祖国防衛者たちの日」であったこともあり、テレビ・ラジオは軍需産業の現状だの、明日にでも戦争が始まるかのいらついた口調の議論が多く、本当にうんざりした。この人達はいったい・・・・・

そしてモスクワの街並みは、ソ連が崩壊して以来、いつまでも「仮住まい」の状態のままのように感じられる。一見洒落た、しかし安手の建材で作られたことがありありと見える新築ビルの群れ。毒々しい悪趣味。心を和ませるものがない。本格的な新建築が少ないという点では、中国にもう20年は抜かれてしまった。そしてそのことを多くのロシア人はまだ知らない。僕もロシアに申し訳ないと思いつつ、今回は地下鉄の中で熱心に中国語を勉強していた次第。ロシアの地下鉄で日本人が中国語を聞いていたのは、これが史上初めてのことだろう。

そして街頭では、まるでいつも兵営にいるかのような好戦的なマッチョさが感じられる。いつも構えていないとあぶない、そんな感じ。まあアメリカでも時々こういう感じはするけど。まだ完全には安全でなく、力次第というところが強く残るこの社会は、人を疲れさせる。

住んでいたアパートの回りでは、大型犬たちの吠え声が絶えない。野犬もいる。ちょうど読んだところでは、モスクワには3万5千の野犬がいる。地下鉄に乗って下りていく犬もいるそうだ。2002年ルシコフ市長は野犬の捕殺を禁じ、去勢と保護を目指せと言った。それがこの結果。1月16日のフィナンシャル・タイムスによれば、22歳のモデル、ロマノヴァが自分のテリアを散髪に連れて行った帰り、メンデレーエフ地下鉄駅でそこを縄張りとする野犬(マーリチク、坊やという名がついていた)に吠えたてられて、隠し持った台所ナイフで刺し殺したのだそうだ。ロマノヴァ(ロマノフ王朝の末裔?)は逮捕され、1年間精神治療を受けたそうだ。マーリチクを可哀そうに思った市民の寄付で、彼の銅像が駅前にたったそうだが、僕は見つけられなかった。

(その後、ある大使館員の奥さんが、僕の話しを聞いて撮ってくれた)
モスクワの野犬像 .jpg

それでも新しい芽も
ある日テレビをひねったら、子供用の「お休みなさい、こどもたち」をやっていた。もう50年はやっているだろう。昔と変わらない。ぬいぐるみが出てきておばさんとお話しし、アニメを見る。その繰り返し。本当にいい番組だ。

ねんねんころり,ねんころり,夜は皆さんおねんねよ。
    ねんねんころり,ねんころり,明日になればまたお日様が。
    今日はとってもくたびれて,みんなに言いましょ,「おやすみなさい」。
    さあ,お目々を閉じて,ねんねんころり

ロシアの青年たちはいつも、明日への希望を感じさせる。明るくて自由なのだ。もっともソ連時代も、西側では「青年こそソ連の明日への希望だ」と言われていて、実際にはそうならなかったのだが。

チェーホフの「かもめ」が初演されたモスクワ芸術座前には数年前まで「禅」というカフェーがあって、ボヘミアンたちがたむろしていたが、これは今ではStarbucksとなって、青年たちがさんざめいたり、素敵な女学生などが一人で読書していたりする。地下鉄を使う市民の服装は年々まともなものとなり、以前の疲れて荒れた表情ももう見せない。I-Padのようなもので本を読んでいる女性や少年がいる。ロシアでは、それはアマゾンのキンドルであるよりソニーである場合の方が多いようだ。有難う。アマゾンに相当する書籍のネット販売はロシアではwww.ozon.ruなのだそうだが、ここからは電子ブックにデジタル情報を移し替えることもできるらしい。

1昨年から始まった「横断歩道では車が歩行者に譲る」という当たり前なこともほぼ完全に定着し、歩行者が運転者に「有難う」と言うことも増えたらしい。10年前のモスクワには、ちかちか光るサイレン(「ミガールカ」と言う。)をつけたVIP用自動車があふれていたが、これも当局の取り締まりでほとんど見かけない。

ソ連時代のアパートというのは、住んでみると外も中もボロっちいのだが、居間の広さだけはたいしたものだ。僕のアパートは1DKだったが、居間は18畳くらいあった。夜、大通りから小道に曲がり、アパートへの雪道をそろそろとたどる。2,3人の市民が僕の前を同じくそろそろ歩いていく。静かだ。近くの家に若者たちが集まって、「ゴーリカ! ゴーリカ!」(結婚披露宴のとき新郎新婦にキスを迫って、友人たちが叫ぶ言葉)と叫んでいるようだが、前の日は軍記念日だったからもしかするとそちらの方の祝いか? そこの四つ辻の暗がりでは、夫婦が車の割れた(割られた)後ろの窓に、プラスチック・ラップを張り渡している。静かで落ち着いていて、そしてそれでも犯罪があって。

昼はもっぱら地下鉄で動く。ここのエスカレーターでは、急がない者は右側に寄る。関西と同じだ。ときどき地下鉄の通路でバイオリンやアコーデオンを弾いている。ギターを弾きながら歌っている。プロなみの腕で。これはソ連時代もそうで、本当にいい。ヨーロッパもアメリカも同じで、地下鉄の駅はこうして自由な文化の香りがするものだ。

南方への列車が出るクールスク駅に行くと、地下鉄のエスカレーターの周囲の壁がユニクロの広告で埋め尽くされている。さながらユニクロ・シティだ。もうすぐ駅の近くにユニクロの店ができるのだ。だが僕の学生は、「ユニクロ」と僕が言っても、その有難さをまだ知らなかった。日本人と言えばサムライを連想し、中国製と言えば粗悪品と決めつけるロシア人のことだから、ユニクロも開店早々が勝負になるだろう。

澱みなのか、夜明け前の暗さなのか
僕は1974年モスクワ大学に留学していたが、その頃はロシア人とつきあうのも難しく、愛想のいい者は当局の回し者だったりした。だがソ連の末期80年代、大学生活を送った連中は非常にリベラルでしかも高い教養水準を持つ、世界でも最高レベルの知識人たちで、彼らがゴルバチョフのペレストロイカを熱狂的に支持したのだ。メドベジェフ大統領も、そうした世代に属している。だが、この世代はその後、「革命に裏切られる」。リベラルな政策が国を分裂させ、経済を崩壊させたばかりでなく、冷戦時代の恨みを捨てて友人になったつもりでいたアメリカやヨーロッパからは旧ソ連の共和国に次から次へと「民主化革命」を起こされ、NATOも拡大されるという仕打ちを受けて、自由とか民主主義とかいう言葉に屈折した感情を持つようになったのだ。

もう誰も覚えていないようだが、プーチン大統領もその第一期は改革志向を明確に示し、一連の立法をはじめ矢継ぎ早に手を打ったものだ。当時プーチンは、ロシアがNATOに加盟する可能性さえ口走っていた。だがロシアでも「官僚勢力」が強いようで、「旧KGBだけではない。役人たちは、プーチン大統領の『政治主導の革新』を結局抑え込んだのだ。それにシュレーダーもベルルスコーニも、その好意を金で買うことができた。だからプーチンは、政治に対してシニカルな見方をするようになったのだ」(あるロシア人の言)。

ソ連共産党亡きあと、国内で使えるほぼ唯一のまともな組織、旧KGB勢力で周囲を固めたプーチンは、その強権と原油収入で国の安定を回復し、年金額も引き上げた。だが統治スタイルにはソ連的な強権性、官僚性がひたひたと戻ってきたばかりでなく、高官たちが汚職、横領にふけっているという報道が絶えない。警官たちもそれを見てか、交通違反を摘発しては多額の賄賂を強要するようになった。その様は、ブレジネフ末期からゴルバチョフ時代にかけてのソ連にそっくりだ。「この国では二重の基準がまかりとおっている。表では美しいことを言っても、裏ではカネをくすねている。これでは、国がもたない」とは、1980年代初期、ゴルバチョフが後に外相として抜擢したシェヴァルナゼに言ったという言葉である。1985年原油価格が暴落してソ連は財政赤字に悩まされるようになったが、そこまで現在にそっくりだ。

だがこの国が原油依存から脱却できるか、その見通しは暗い。原油輸出収入が膨大であるため、ルーブルのレートが上がり、国内でのモノづくりは競争力を完全に失った。何でも輸入する方が安いのだ。軍需生産に異常に傾斜し、計画経済で市場を無視してきたロシアでは、消費財を作ろうとしてもろくな経営者がいない。西側の銀行、企業なら、政府から救済融資を受けても、できるだけ早期に完済して自由を取り返そうとするが、今回救済資金をもらったロシアの銀行、企業の3分の2は政府融資をまだ返していない。彼らは政府資金に寄生して、適度の自由を味わっていれば満足なのだ。

ブランド力もない。サービス精神もない。そして資本は海外に流出し、銀行融資の利子率は20%以上もあって、とてもモノづくりなどやっていられない。「『経済近代化』と言っても、何をどうやるのか? ロシアには経済発展のための『インフラ』(基礎的要件という意味)がない。国民は社会主義化しか求めていない」と友人は言う。
40代後半の有名ジャーナリストは僕に言った。「この社会は澱んでいる。風もなく、息がつまる感じ。我々の世代はソ連末期に青春を送り、最高にリベラルで理想に燃えていた。だが我々の世代はこわすだけで終わる。新しいものを創造できる世代はまだ登場していない。」

あるいは、19世紀末から20世紀初頭のロシア。停滞のメランコリーと何か新しいものがやてくる予兆とを描いた、チェーホフの桜の園や三人姉妹の世界がまた蘇ってきた。ロシアはときどき思い立ったように立ちあがっては全ての過去をかなぐり捨てるが、その結果ますます事態を悪くしていくのだ。

国民を立ちあがらせるものがない?
僕のモスクワ滞在は、バンクーバー冬季オリンピックとほぼ完全に重なった。そしてその間中、ロシアのテレビ、ラジオは、「ロシア選手団が獲得したメダルの記録的少なさ」、「ロシア・オリンピック委員会の『官僚』たちの責任」ばかりを吠えたて、巷の話題もほぼ「ロシア選手団が獲得したメダルの記録的少なさ」に集中したのだ。日本や韓国が優秀なロシアのコーチを随分ガメてしまったからな。すみません。

だがそれにしても、この問題についてのロシア人の騒ぎ方は少し度を越していた。おそらくここには、ロシア人にとって「最後に残された誇り」のようなものが関わっていたのだ。「国民を立ち上がらせるものがもうない。理想が、目標がない。1960年代の人工衛星打ち上げのような」と僕の友人は言う。プーチン首相はまだ大統領だった時代の2007年、ロシアの面子など歯牙にもかけないブッシュ政権を相手にキレて見せ、反米主義で世論を結集する構えを見せたが(その痕は今でも学生たちのモノの言い方に残っている)、オバマ大統領に「リセット」とか言われてがくんとなって、それ以来反米言辞にも力が入らない。これも、今年のモスクワがなんとなくタガがはずれてしまったような感じを与えた一因だろう。

それ以上に大きな要因は、プーチンの下で社会が安定したのはいいものの、旧KGB勢力を筆頭とする支配者たちが汚職にまみれていることが益々国民の頭の上に重くのしかかってきているということだろう。メドベジェフ大統領は警察にその罪をかぶせようとしてか、内務省の大幅改革を断行したが、国民はこれだけでは納得するまい。それに、「石油だけじゃロシアは食っていけない」という認識が大衆レベルにまで浸透してきたことも、大きい。僕の乗ったタクシーの運転手は、ロシアが「石油に依存」していることに不満だ、「少しは自分で作ったらどんなものか」と言った。

彼は両親と3人で26平米のアパートに住んでいる。それはさすがにひどいじゃないかと言うと、敷地900平米のダーチャ(別荘)を空港近くの郊外に持っていると言う。これだから、ロシア人に安易に同情してはいけない。同情さるべきは、一生働いても小ぶりの住居しか買えない日本人の方なのだ。彼は数十万円相当でその「別荘」の地権を買い、家は自分で建てたのだが、そのうち一帯が「都市圏」として認定されると「土地使用料」が跳ね上がるのだそうだ。彼の母は農村出身で、「あたしゃもう、生きているのに疲れたよ」と毎日こぼす。彼女はロシア革命直後の内戦も経験したwalking historyで、確かにそう言えばロシアでは1920年代からいいことはなかった。

2012年の大統領は誰がなる?
ロシアの専門家を名乗るなら、「2012年の大統領はメドベジェフ、プーチンのうちどちらがなる」かを論じてみせないといけない、ということになっている。忘年会の隠し芸のようなものだ。今回僕が得た感じは、「プーチン優勢なるも判断するには尚早。ダークホースだってあり得る」ということ。ロシアの国営系テレビのニュースも、メドベジェフ大統領とプーチン首相がその日にしたことをほぼ等分に見せるよう努力しているのがありありと見える。シャツを脱ぐと筋肉隆々、三島由紀夫なみのマッチョのプーチン首相も、最近では顔の皮膚が少したるんでロシア人らしくなってきた。

2012年の大統領選候補を決める最終期限は、政治的には2011年半ばだという者がいた。だが2008年3月の大統領選挙では、プーチン大統領が後継者を公に指名したのは07年12月で、それまではメドベジェフ、イワノフが競っていたのだ。
他方、気の早い者は、「メドベジェフがこれから数カ月のうちに何も実質的な新政策を始めなければ、彼が1期だけで権力の座を去ることに同意したものとエリートは見なす」と言った。メドベジェフはリベラルの方に軸足を据えており、いろいろいいことを言うのだが、あまり実行が伴わない。私心がないように見えるので国民に許容されているが、凄味がないために相手にされていない。

「メドベジェフは憲法裁判所長官でいい。プーチンはもう首相をやることに飽きてきている。それに今のまま辞めれば、プーチンは結局ロシア経済を何も改革できず、ただ石油収入に乗っただけで12年間をしのいだこととなり、歴史に残らない。それは彼の負けず嫌いの性格から言って、我慢できまい」と言う友人もいた。それに、ロシアの政治でも最も重要な「カネの流れ」の多くはプーチン首相が抑えている。メドベジェフ大統領が会長をやっていたガスプロムの資金でさえ、そうらしい。

市民運動のマグニチュード。「第三勢力」の登場?
民主主義がないと言われている中国でも、携帯電話やメールを使って、首謀者のわからない集会やデモが開かれる時代になった。ロシアはエリツィンの時代に確立した報道の自由がまだ少しは残っている上、ブログでは自由で活発な議論が行われている(昨年8月時点でインターネット使用者は全国で4,200万人、成人の36%と推計。ブログをやっているのは1月時点で90万人ほどと推計)。この前警官が酔っぱらって撃ち合いし2名を殺した事件が、ブログで写真ととともに流されて、モスクワの警視総監辞任につながった。新聞では、「80年代末と同様の民主的目覚めがブログによって起きつつある」と囃されているが、ブログの世界はいずこも同じオタクの世界で、無数の小さなグループに細分化されてもいる。
この1月には、エリツィン大統領の次女で彼のイメージ・メーカー、アシスタントをしていたタチヤーナ・ユマーシェヴァがブログを開き、「エリツィン時代の自由」を擁護する記事を書き始めた。彼女の夫は元「アガニョーク」誌の副編集長、エリツィンのゴースト・ライター、そして最後は大統領府長官にまでなったヴァレリー・ユマーシェフで、彼女のブログのゴースト・ライターであるとも言われる。メドベジェフ大統領がリベラル勢力にラブコールを送っているのに乗って、自分達の存在をふたたびアピールし始めた。
1月末、カリーニングラード(ポーランドの北にあるロシアの飛び地。昔はプロシアのケーニヒスブルクで、哲学者カントが一生住んでいた街だ)やウラジオストックで、市民のデモが起きた。自動車関連の税引き上げに抗議するデモだった。1月は公共料金の引き上げが行われることの多い月で、これまでも住民が「自発的に」(完全に自発的なデモはないのだが)デモに繰り出したことはあったものの、今回注目されたのは「TIGR」(「ロシア積極的市民同志会」の頭文字。トラという意味も持つ)という、インターネット(もうそのサイトは当局によって閉鎖されているが)、携帯電話の上でのみ存在する団体が、これらデモの動員に関与したと見られることである。「官憲は、この運動の正体がわからず、ぴりぴりしている」らしい。

社会の行き詰まり、上から下まで広がるシニカルな横領と汚職、これらに対して普通の市民や学生たちは、次第に忍耐の限界に達しつつあるようにも見える。日本だってそうだが、社会がダメになってくると、どこかで市民は立ちあがる。ロシアでも17世紀初頭、ポジャールスキーとミーニン(赤の広場に彼らの像がある)という地方貴族が中心となって愛国運動を組織し、7年間もモスクワを制圧していたポーランド軍を追い出したことがある。

今回そういうようなことが起こるとも思えないし、起こればロシアの分裂につながりかねない危険なことなのだが、少なくとも社会の覚醒、蘇生に向けてのエネルギーが溜まりつつあるとは言えよう。ソ連の末期、生活水準の向上を背景に市民の権利意識も向上し、これがペレストロイカの背景となった。今、同じような現象が新しい中産階級を背景に起こりつつあるのかもしれない。 

他方、ロシアにおいても、社会は一様でない。所得水準の低い階層は、社会が停滞すると改革よりも益々多くの分配を求めて叫び出す。ある友人に言わせればロシアの場合、彼らの権利意識は、「改革の方向ではなくソ連時代への回帰を求める方向に行くのでないか」ということだ。タクシーの運転手は言った。「資本主義では勝者だけがいい目を見る。我々は全員いい暮らしがしたいんだ」。改革と言うとすぐ平等化の方向へ流れ出す、日本にも通ずるところがある。

ロシア人のDNA、日本人のDNA
「日本は行き詰まりだ。ロシア人にいったい何をどう説明したらいいだろう」という暗い気持ちで成田を発ったが、こういうわけでモスクワにいると、日本が行き詰まりとは別に感じられない。逆に明るく希望に満ちているように見えた。

帰りのシェレメチェヴォ空港、アエロフロートのカウンター。荷物を測ると、「超過重量」だと言う。その料金を払うため窓口に行くと、「安くしとくわよ。領収証出せないけど」。
そして日本の銀行口座をベースとするクレジットカードは受け付けない。多分、日本の銀行がロシアからの請求を信用せず、受け付けないからだろう。ロシア人もこの10年くらいしゅんとしていたが、中国、インドの空港でももうやらない、くだらない横領を今再び平然として始めているようだ。昨年も同じことがあったものな。

そしてやっとのことで、パスポート・コントロールにたどりつくとまた行列で、1人に3分もかけて出国審査している(3月8日の18:25。ターミナル左の52番窓口だ)。行列が残っているのに平気で窓口を閉めたりするから、別の行列の最後尾にまた並ばないといけない。無責任と悪意そのものだ。こんなことをやっているのは、世界の中でいまどきロシアだけ。国の恥なのだ。文句を言えば、「お前は反ロだ」と言って食ってかかる。そうやって、ASEANにもアフリカにも置いていかれる。係官は若くてソ連時代を知らないはずなのに、どうしてソ連時代のやり方が戻ってくるのか? 度し難い。このDNAは。

そう思ってやっと成田に着いて、やれやれ清潔でカンフォタブルな日本の社会で疲れを癒そうと思ったら、たった2週間のうちに日本は随分薄汚くなってしまった。モスクワから追いかけてきたかのように、大雪が降りだし、池袋駅には昼間から路上生活者が多数避難している。そして、通路を行きかう人々もなぜか失業者風のくすんだ服装をしているように見え、立ち食いの駅ソバでもすすろうものならもう戦後のアメ横ムードだ。これなら、モスクワの新しいモールの方がはるかにきれいでモダン。来年もモスクワへ教えに(教わりに)行きたい。

コメント

投稿者: 中西 治 | 2010年3月18日 07:44

河東哲夫様 いつも貴重なメール、ありがとうございます。研究会などでお目にかかれるかと期待していましたが、お出ででないのでどうなさっているのかなと思っていました。モスクワにお出でだったのですね。私たちの研究所では近年、中国、朝鮮、キューバ、ベトナムを訪問しています。今年9月にはロシアに行きます。このモスクワ滞在記、私たちの研究所のMLで転送し、所員の方々に読んでいただきたいと願っています。お許しの程お願い申し上げます。

投稿者: 大熊 毅 | 2010年3月18日 11:05

河東様
毎回、河東レポートを楽しく拝読いたしております。
先日から、「坂の上の雲」を読んでおります(3回目)。その中に「日露戦争での日本の勝利は帝政ロシア末期の官僚主義が自壊したものに過ぎない」といった表現がありますが、ロシア人のDNAは今も変わらないのかなと、今回のレポートを拝見しながら思いました。
次回も楽しみにしております。

投稿者: 横田 | 2010年3月22日 13:28

平素垣間見る報道記事と視点をかえて、実態を歪曲してない論点に真実を実感します。モスクワ、北京の今後5年間の動向が隣国として気になる昨今です。そんな中で一気に次の文節内容の表記になるほど、そうだったのかを認識します

(謝謝。励みになります。
河東)

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