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世界はこう変わる

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2009年10月 8日

アジアでロシアは何ができるのか? Ⅰ 戦前から冷戦時代の歴史

鳩山内閣になって、対ロ関係が動き出すのではないかと言われている。まるでこれまで動いていなかったみたいに。実際には、1991年ソ連が崩壊して以来、日露関係はずいぶん様変わりになってきた。領土問題は動いていないように見えても、北方4島周辺での漁業は(特定品目を除いて)やりやすくなっている。

問題は、この20年弱、日本政府が予算もずいぶん使ってロシアを助けてきたのにかかわらず、ロシアは北方領土問題を本気で動かそうとはしてこなかったことだ。

石油価格がまた上昇している中、ロシア経済はひところの窮状から抜け出しつつある。だが資源の輸出に完全に依存したロシア経済は、世界の石油需要が頭打ちになる2020年に向けて、これから難しい局面に入る。人口が650万人しかいない極東部は、ますます見通しが暗い。隣接する中国は東北部だけで、1億2000万人の人口をもって高度成長をしているからだ。

ロシアは我々がこれからどんなに助けたとしても、アジア方面では米国はもちろん、中国にもとうてい互角の勝負はできない。日本が中国に対して「ロシア・カード」を使おうと思っても、大きなカードにはならないのである。

だから、日本から譲ったり、これ以上予算を使って助けたりして北方領土問題を解決しようとするべきではない。急ぐ必要はないのだ。北方4島は一貫して強く返還を求めつつ、他面では日本にとって利益になる経済関係は進めていけばいいではないか。ロシア政府が北方領土問題の解決に内政上のエネルギーを本格的に割こうと思う時まで、待つのだ。

ここでは、そうした判断の材料として、アジアでのロシアの地位を詳しく考察してみたい。


太平洋への見果てぬ夢
東アジアにロシアが現れたのは新しいことである。ロシアはもともとモスクワ公国という都市国家だったが、一六世紀にモンゴル支配をはねのけ逆に拡張を始めたのである。それは、その百年前にイスラムを撃退して拡張を始めたスペイン、ポルトガルの動きとよく似ていた。モンゴルの帝国を裏返しにしたようなものだった、と言ってもよい。

だが森に被われた広いシベリアのこと、ロシアが太平洋岸にたどりつきウラジオストック周辺の領有権を清帝国から奪ったのはやっと、一八六〇年の北京条約によってである。それまでのシベリアはチュルク系、モンゴル系諸民族の居住する地域であり、ウラジオストック周辺地方は高句麗、渤海国、あるいは女真族と異なる支配者の手を転々と経てきた。ロシアは西欧諸国と同じく、植民地勢力としてアジアに立ち現れたのである 。

一攫千金を夢見るロシアの冒険家たちは、極東で止まりはしなかった。彼らはアラスカへの植民を進めただけでなく、その推進者のレザノフは一八〇六年、北米西岸を船で南下した。今のオレゴン州のあたりを、アラスカ植民の食糧栽培のため植民地にするのが狙いだった。彼が嵐で流されて、当時スペインが統治していたサンフランシスコの総督の娘(当時一五歳)と恋に陥った有様はまだソ連の時代、ブロードウェイの向こうを張って作られたロシア版ミュージカル「ジュノーとアヴォース」に描かれて、今でもモスクワで上演されている。当時の名残はサンフランシスコ北方のFort Rossや、サンフランシスコ市内の「ロシア丘」という名前に残されている 。

レザノフはロシア最初の世界一周航海も行い、南米から太平洋を横切って一八〇四年には長崎の出島に至って、外交関係樹立と通商を求めた。幕府はこれを拒絶している 。ハワイでも、カメハメハ大王がハワイ諸島統一を進めていた一九世紀初頭、露米会社がアラスカへの補給基地としてカウアイ島などの利権を獲得しようとして、カメハメハに追い出されている。ロシア人は西欧諸国に百年は遅れて太平洋に到達したが、結局強力な地歩を築くことはできなかったのだ。

だがロシアは内陸部においてはかなりの拡張を遂げ、中央アジアに勢力を確立した。これによって、オリエント文明は新疆とペルシャの間の環を失うことになった。ロシアは満州においても、一九〇〇年の義和団事件鎮圧後も兵力を残して入植を続け、さらに朝鮮半島に野心を示したことで日露戦争を起こして敗北した。その後一九一七年のロシア革命で帝国は瓦解、一九一九年には日本、米国などによるシベリア出兵が行われたため、モスクワ中央からの差し金で「極東共和国」が緩衝地帯として作られ、これは一九二〇年から一九二二年まで存在した。その後ソ連は超大国となり、朝鮮戦争、ベトナム戦争では拡張主義勢力として行動したが、一九九一年のソ連崩壊とその後の中国の台頭で存在感を大きく後退させている。

以上を総括するに、ロシア、ソ連も、米国と同様のアジア太平洋国家となることを夢見ていたのである。しかし西海岸で金が発見されて以来、大陸横断鉄道を何本も建設し、パナマ運河を建設してまで西海岸の安全を確保し、私企業の活発な投資で西海岸を発展させた米国に比べて、ロシアによる極東開発はあまりにも弱々しいものだった。ロシアは力に任せて、シベリアから極東にかけての広大な地域を自分のものとしたが、英国にとってのインドに比べれば、それは市場とはなり得ないものであり、ロシアの産業革命を促進しはしなかったのである。ロシアはこれら地域を、その後自力で十分開発もできずもてあますどころか、安全保障上の弱点にさえなっているのである。

自らをヨーロッパ人と位置づけるロシア人にとってロシア極東部は異質の地であり、流刑の憂き目にあうか、ソ連時代大学卒業後に強制的に指定されて就職するか、割高の賃金に魅せられて出稼ぎにくるか、いずれかのケースで移住してくることが多かった。今でも極東で働くロシア人には、業績をあげていつかは「ヨーロッパ」へ帰ることを夢見る者が多い。そしてこの地に来てからまだ時が浅く、法的地位も確定していない土地もあるため、極東を中国あるいは日本が取りにくるのではないかという警戒感が今でも根強く見られるのである。

なお、ロシアは文学、音楽などでは日本に大きな影響を与えたが、政治、経済面でのモデルとしては軽んじられた(但し、戦前の国家総動員法制定のころは、ソ連の計画経済体制が大いに参考とされたが)。これに対して中国人は、国家を短期間に再建するためにはソ連的専制体制が最適と見て、これを「政党国家」と名付けて今日に至るまで用いている。

戦前から冷戦終了まで
ここでアジア太平洋地域とソ連の関係をふりかえってみたい。過去と対比すれば、現在の意味が浮き彫りされるかもしれないからだ。

(中国):ロシア革命後ソ連がアジア太平洋方面に有していた最大の目的は、「脆弱なソ連極東を満州の関東軍に攻めさせない」ということであったろう。そのためにソ連は、まだ脆弱だった中国の国民党、そして共産党を利用した。孫文、蒋介石は日本とも緊密な関係を持っていたが、ソ連は彼らをモスクワに招待した。孫文は、ソ連共産党支配にならって「政党国家」理論を編み出し、これは現在の中国共産党の統治理論になっている。そして蒋介石の子息蒋経国はモスクワに留学し、ロシア人を妻とした。コミンテルンは中国共産党誕生の当初からこれを指導し、国民党と無理やり協力させては日本への当て馬として利用しようとしたのである。

太平洋戦争終了とともに、ソ連は「日露戦争でロシアが勝っていた場合」の状況を作り出そうとしたかに見える。欧州での拡張ぶりと相呼応して、満州に侵入して再び大連に至るまでの利権を抑えたのだ。中国はこれを取り返すのに大変な苦労をなめた。毛沢東が一九四九年、モスクワに三ケ月逗留して厳しい交渉を行った末、スターリンからやっと引き渡しの約束を得るのである。そして朝鮮戦争はこの半年後に勃発する。このことは、ソ連が満州を朝鮮半島に進出するための足場と考えていたことを示すものかもしれない。そして中国軍が最終的に参戦したのは、米軍に対抗するだけでなく、ソ連が北朝鮮を牛耳るのを防止するためであったかもしれない。その後ソ連はアジアへの地理的拡張を諦め、他の手段で米国と対抗するようになった。中国という大きな共産国が誕生したから、当面安心もいていただろう。ソ連は中国に多数の技術者・専門家を送って、その開発を助けた。

だが一九五六年スターリン批判を契機に中ソ関係が悪化し、一九六九年には珍宝島で武力衝突が起きる。中国はソ連の盟友であるどころか、共産圏、そして開発途上国での影響力を競い合う相手となり、そのねじれた関係のなかでベトナム戦争が進行する。ベトナムは中ソ対立につけこんで双方から援助を引き出し、米国もこの対立を利用した。つまり一九七一年、キッシンジャーはまず中国をベトナム和平に引き込むことでソ連の支持をも引き出したのである。ソ連はベトナムだけでなく、インド、アフガニスタン、ビルマ、ラオスとも親密な関係を築き、時に中国との間で影響力を競い合った。中国に千年間にもわたって直接支配されたベトナムをはじめ、これらアジア諸国の多くは中国と微妙な関係にあり、ソ連はカウンター・バランスとして利用されてもいたのである。

そしてソ連の艦隊は太平洋艦隊と北洋艦隊の間の航路を維持するとともに沿岸国に勢威を誇示するため西太平洋、インド洋で活動し、交通の要衝マラッカ海峡に遠くないベトナムのカムラン湾には一九七九年、停泊・補給拠点を設けるに至る。これは「カムラン湾基地」と呼ばれて、その実力以上の心理的圧力を西側に与える。これらに加えてソ連は、一九七一年にはシンガポールにナロードヌイ銀行支店を設置して諜報に役立てると同時に、早くからアジアでの資金の流れにも参加するようになっていたのである。ベトナムが勝利するとともに、世界は東南アジアにおける「共産主義のドミノ」現象を真剣に心配するようになった。

(北東アジア):戦後の北東アジアにおいては、北朝鮮、モンゴルがソ連と友好協力援助条約を有する同盟国で、特に後者は社会主義国となった一九二四年から一貫して親ソ路線が際立っていた。モンゴルは、清時代のように中国領内に再び組み込まれてしまうのを嫌ったのである。

ソ連は戦後、波はあったがほぼ一貫して北朝鮮への強い影響力を保持した。ソ連からの重油の供与は北朝鮮経済にとり不可欠のもので、ソ連との貿易は北朝鮮貿易の五〇%以上を占めていた。一九六五年にはソ連の支援で小型軽水炉が完成し、ソ連は中国とともに北朝鮮への核技術支援を続けた。

しかし同じく分裂国家だった東独に比べ、北朝鮮に対するソ連の対応はやや中途半端だった。東独にはソ連軍の精鋭が駐留して、西側との対立の最前線になっていたが、北朝鮮はそうではなかったし、中ソ論争の間、北朝鮮は中国とソ連との間でバランスを維持する要があった。北朝鮮はワルシャワ条約機構はもちろん、モンゴルとは違ってコメコン(ソ連圏諸国の集まった経済共同体)にも入っていなかった。

(ソ連極東における東西対立と協調):冷戦中オホーツク海には、米国に向けて照準を設定したミサイル(SLBM)を装填したソ連原潜が遊弋しており、この地域は重要な戦略的意義を持っていた。ウラジオストックとペトロパブロフスクはソ連太平洋艦隊――ムルマンスクを基地とする北洋艦隊、バルチースクを基地とするバルチック艦隊と並ぶ――の基地として重要な地位を持っていた。またハバロフスクに置かれた極東軍管区は、太平洋の米軍、そして中国に対峙する重要な存在であり、その司令官は数度にわたり国防相などモスクワでの要職に昇進していった。極東からはソ連の爆撃機が太平洋方面に示威・偵察飛行を行った。日本自衛隊の防空能力の多くはこれへの対処に向けられたし、また海上自衛隊はソ連の潜水艦、爆撃機に対して米国の空母艦隊に抑止力を提供することも期待されていた。

軍事的対立の一方、ソ連あるいはロシアの指導者は、ロシア極東とアジア太平洋地域の間で協力関係を築きたいという姿勢も一貫して表明してきた。それは影響力を拡大するためのプロパガンダであると同時に、経済的利益を求めての本音でもあったろう。ソ連、ロシアの指導者たちは突然思い出したように「アジア・太平洋地域における画期的なイニシャティブ」について演説をした。それは、①米国、あるいは中国への牽制、②シベリアの天然資源をもってアジア太平洋と経済関係を強化したいという意欲の表明、③そして(米軍の地位を相対化させるとともに、日米を切り離すために)「集団安全保障体制」をこの地域で樹立しようという提案、から成っていた。だが、これら演説で実際の政策として実現されたものはわずかである。太平洋方面はソ連にとって政治・経済・軍事すべての面で重要な意味を持っていたが、実際の政策重点はどうしても対欧米関係になるのであった。(続く)

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