Japan and World Trends [日本語] 日本では自分だけの殻にこもっているのが、一番心地いい。これが個人主義だと、我々は思っています。でも、日本には皆で議論するべきことがまだ沢山あります。そして日本、アジアの将来を、世界中の人々と話し合っていかなければなりません。このブログは、日本語、英語、中国語、ロシア語でディベートができる、世界で唯一のサイトです。世界中のオピニオン・メーカー達との議論をお楽しみください。
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世界はこう変わる

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2008年9月22日

北京旅情

 9月18日~20日、北京に行って、何人かの中国人の学者達と話し合ってきた。オリンピック後の中国外交がどんな方向を向いていくのか、グルジア戦争の後、ロシアに対する態度に変化がないかどうかを確かめるのが目的だった。ちょうどアメリカで不良債権を政府が買い取る方針が発表された時だったが、僕の会った中国人はそれほど動揺してはいなかった。ここでは、難しい話はやめて、今回の印象だけ書いておく。

中国のタクシーと言えば雲助で有名だったが、もう数年前から厳格にメーター制、プリントした領収書もくれる。以前は空港の税関を出ればタクシーの客引きでごった返し、一面わずらわしく、他面とても便利だったが、今では「タクシー乗り場」で順番に乗るしかない。

市内に入ると、北京は半年ぶりの同行者が感嘆の声をあげた。「たった半年なのにすっかり変わっちゃいましたよ。どこにいるのかもわかりません。」

でも、道端には自転車もバイクも走っている。2,3年前まではロバの荷車も走っていたらしい。歩道を行くのは、質素な、しかしまちまちのかっこうをした人達だ。30年前、僕が初めて北京に来た時は、彼らは皆お揃いの人民服。天安門広場はがらんとして、隅に強烈な臭いを放つ公衆便所があったっけ。こんな大きな国が日本の隣にあったとは。「なかったんだけどな」――というのが、われわれ戦後の団塊世代にとっての実感なのだ。

北京の中心部は真新しい小奇麗な高層ビルがずらりと並ぶ。壮観だ。だが少し都心を外れると、新しい高層アパートの間にはごみっぽい空間と粗末な商店が並ぶ。かと思えば場末の小路のレストランに入っていくと、その裏小路には粗末な細長い赤い提灯がずらりと立っている。そして料理屋の部屋や廊下、そして便所はお世辞にもきれいとは言えない。これらは、東京よりモスクワやタシケントの場末を思い起こさせるのだ。DNA―――。中国はその歴史の転換点で、外国文明を徹底的に取り入れることがある。今は欧米、一昔前はソ連だった。そのソ連文化のDNAがそこらじゅう、未だに残っているのだが、ソ連が崩壊した今となっては中国人さえもはやそれとは気づかない。そんなところを車窓から写真に取ろうとして、タクシーの窓ガラスを急いで下げようとすれば、昔風にぐるぐる回すノブのボッジがぽろりと取れて、シャッターチャンスを逃してしまう。

今回、土曜日に自由時間があったので、中国語のできる仲間と街の見物に出かけた。前門の向こうでは、オリンピックを前に19世紀の街頭風景再現工事が終わっていて、まだ店の多くは開業していなかったものの中国人観光客で大賑わい。まるで映画のセットのよう、マカロニ・ウェスタンならぬラーメン・ウェスタンでも撮影するのにぴったりといった風情だった。
で、ここは早々に、前門路から右へ路地に入ると、そこはもう昔からの「胡同」だ。「三丁目の夕日」の世界。豆腐売りのラッパが聞こえてくるような、戦後世代の僕にとってはものすごく懐かしい空気、そしてにおいなのだ。ここに住んでいる人達は老人が多くて、一見おとなしい。

(縦を横にできず、すみません)

胡同からタクシーで、今度は北海に行く。北京はモンゴルのフビライが大いに拡張し、遼の時代に作られた北海を運河で広州につなげ、南からの豊かな産物を北海の港に陸揚げさせていたらしい。そして湖のほとりの大草原には、モンゴルの軍馬が多数、草を食んでいたというから、まあ戦車の大車庫のようなものだったのだろう。今の中南海が作られたのは、明の時代だという。

でその人工の北海の一隅に、瓊華(けいか)島という人工の島があり、清の初期にここに仏舎利であるところの白塔が作られた。清というのは満州族、モンゴル族、チベット族、そして漢族の連邦的国家で、当時はまだ強力だったチベットは支配していた新彊を中国の領域に連れ込んだ。だからチベットは大事だというわけで、清の皇帝は風水的にも大事だろう故宮の裏、北側に白塔を建てたのだ。

その白塔の下のお堂になんとダライラマ5世の像が安置されている、とモノの本に書いてあったので、以前から確かめて見たいと思っていた。だが同行者がそこらじゅうの人に聞いても、「そんなの知らない」とか「閉鎖されている」とか適当な返事ばかり。それらしい寺院が丘の腹にあるのを見つけて、ふもとの土産物屋の女店員に「この建物は何か」と聞いても、「知らない」という至極無責任な答え。べつに隠しているわけではなく、本当に知らないのだろう。寺のおかげで稼いでいるのに。

やっと誰か男が、「そこの上。3番目の寺にある」と教えてくれた。そこで丘を登りだす。1番目の寺に何があったかはもう覚えていない。2段目の寺には布袋、いや中国風の弥勒菩薩が鎮座している。韓国、日本ではあれだけやせている弥勒菩薩だが、ここ中国では貫禄十分、まさに布袋の風情なのだ。韓国、日本の精神主義、中国の現世主義といったところか。

で、3段目の寺に入っても、ダライ・ラマの見慣れた姿は目に入ってこない。3体の仏像が並んでいるだけだ。だが表示を見ると、中央の像はラマ教を創始した偉いお坊さん、向かって左はパンチェン・ラマ、右がダライ・ラマ5世なのだった。薄暗い堂の奥にダライ・ラマの像だけが目だけ光って密やかに安置されている様を想像していたが、実際は全然違ったのだ。

ダライ・ラマ―――高僧達が村を回っては、「お告げで」利発な少年を選び、次のダライ・ラマとするという。だが中世の実態は、そんな綺麗ごとではなかったようだ。次のダライ・ラマをどの家から選ぶかは、チベット貴族達の最大の関心事項。「お告げ」は、彼らの隠微なゲームの結果だったろう。チベットは宮廷内の争いが激しかったというから、中世のダライ・ラマも若くして何人も暗殺されている。そして最初は同盟相手としてチベットを大事にしていた清の宮廷も、ダライ・ラマ「人事」に介入するようになり、しまいにはダライ・ラマ継承に当たっては、清宮廷の許可を求めるようになったというから相当なものだ。まあ、信長の比叡山弾圧に比べればはるかにましだが。

隣の景山公園にも行って見た。麓では小学生達が課外授業なのか、一生懸命写生をしている。まだ4年生くらいなのに、その描く絵は線もしっかり細密で、いわゆる「プロはだし」なのだ。ははあ、一人っ子なので両親、祖父母の輿望(そして介護も)を一身に荷い、小さい頃から文武百道、鍛えられているのだなと思う。一人っ子なのに甘やかされず、すごい競争力を身につけたサイボーグのような中国人青年達―――これじゃ、日本がオリンピックで負けるのも無理はない。


将棋に興ずる中国人

帰りの空港。空港ビルのカフェではインド人の中年男、日本人の中年女性、日本人の青年が、どこか初対面だが親しくなったという風情で、日本語で談笑していた。中国で、日本人とインド人が日本語で会話をする―――ラーメンとスシとカレーライスの組み合わせ。窓の外では、離陸したジェット機が悠久の黄砂かスモッグか知らないが、とにかく濁った空に吸い込まれ、すぐ見えなくなる。

北京から成田まで、帰りはあっという間、3時間少ししかかからない。行く時は、朝鮮半島を横切って5時くらいかかる感じなのだが。こう近いと、日本も中国の周縁部の一つなのか? いや違う。イギリスとフランス、ドイツが互いにあれだけ近くても、言葉やマインドまで大きく違う国々なのだから。    河東哲夫

           (了)

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