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2022年7月17日

西欧中世史に遊ぶ 十字軍は東ローマ帝国にとってはゲルマン人の再侵入

(これは、6月22日付メルマガ「文明の万華鏡」第122号の一部です)

どこも、人間の業(他人のものを取ろうとする欲)、国家のエゴのぶつかり合いで、息がつまる。国家のエゴの陰には指導者のエゴが隠れていて、彼らは国民をダシに野望を遂げようとする。ある日突然、日常生活を破壊され、地下のシェルターに追いやられたり、ロシア軍によるジェノサイドの証拠として使われるウクライナの民間人にしたら、たまったものではない。そして、ウクライナ戦争のあおりでパンの価格が高騰するアフリカ・中近東、原油価格高騰等によるインフレでバブルが崩壊して不況になる米欧日の市民。いずれもいい面の皮だ。

その中で、日本ができることは限られる。世界政治について発言しても相手にされない。僕も文化やスポーツに逃避したいところだが、才能がないので、逃避しても楽しくない。で、これも才能はないのだが、歴史に逃げることにする。

 と言うか、まじめな話、僕はライフ・ワークとして、西欧の近代文明なるものの正体をずっと勉強してきた。自由・民主主義の価値観、個人主義、人種差別等々、西欧にまつわるものは、果たしてナンボのものか、その故事来歴を見よう、ということだ。

 で、現役の時も夜遅く、あるいは休みの時に集中的に集めてきたデータをもとに、このコロナの2年間、西欧での国家と経済の発達史を、中国と対比しながら書きに書いてきた。やっと16世紀のところまで、第二稿ができたところ。この原稿から、西欧の中世史でも特に面白い十字軍、そして宗教改革の箇所をご紹介したい。結局、人間のエゴの話しになってしまい、けっこう息はつまるのだが。

十字軍

十字軍は、筆者の目にはずっと、何か奇異なもので、筆者の知っている西欧史にははまらなかった。「何か突然現れて、オリエントの方でごそごそやっているのだが、西欧本体にはあまり関係ない」という感じだったのだ。だが調べてみると、十字軍にはオリエントから西欧まで、あらゆる勢力が参画する。ローマ教会、西欧の各王国、ヴァイキング転じてノルマン、東ローマ帝国(ビザンチン)、セルジューク・トルコ、そしてアラブのイスラム勢力、といった具合。

口でいろいろ言うよりも、まず何がどう起こったのかを見ておこう。十字軍は合計六回~八回(いろいろ数え方がある)、175年間にわたるが、このメルマガでは第1回の話しだけ。

一〇七一年、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の軍がセルジューク・トルコに敗れ、それによって小アジアを占拠されたことから話は始まった。セルジューク・トルコは伸長し、一〇八五年にはシリアのアンティオキア(今はトルコ領のアンタキア)を制圧、コンスタンティノープルにも危険が迫る。そのため東ローマの皇帝アレクシアスは一〇九五年、ローマに使節を派遣して西の支援を要請した(ことになっている)

ローマ法王ウルバヌス二世は兵力を派遣することで、一〇五四年に起きた東西キリスト教会の事実上の分裂を修復できると考えたようだ。彼はその年の末、Clermontに兵力派遣を検討する会議を招集。

これには、主としてフランス南部の司教たちが出席したのだが――ウルバヌス二世はフランス出身だった――、反響は全西欧に及んだ。諸方からの参加希望者が膨れ上がり、今で言えば「多国籍軍」が成立してしまう。なんでそうなったかと言うと、一つには、ウルバヌス二世の二代前、グレゴリウス七世以降、ローマ法王の勢威が上向きであったことがある。グレゴリウス七世は、分裂したフランク王国に散らばったキリスト教会を自分の手にまとめるため、各国王と聖職者の人事権(叙任権)を争った。中でも最も抵抗したローマ王(神聖ローマ帝国皇帝でもある)のハインリヒ四世を破門。「カノッサの屈辱」で跪かせて、法王の威力を確立したのである。十字軍というのは、その法王の勢威を各国王に刷り込む格好のイベントであったことだろう。

Britannica百科事典によれば、エルサレムへの巡礼は、キリスト教がローマ帝国の国教とされた時代から盛んになっていた。これが十一世紀にどの程度行われていたのか知らないが、聖地、そして聖地に至る道が異教徒に汚されるのを止める、というのは、かっこうの旗印となる。

そして十世紀末の「農業革命」で経済力がかなり充実し、諸国王が大軍を組織して派遣することが可能になっていたことも、背景にあった。加えては、面白いことに同時代の日本の平安時代と同じように、「世の終わりがやってくる」という迷信が広がっており、「フランク王国の最後の継承者がエルサレムに信者を率いておもむき、第二の救世主の到来を迎える」のだ、という信仰が広がってもいた。

聖なる企てには、ありとあらゆる俗な打算がぶらさがる。日本の宇治に平等院を建立して極楽浄土成仏を願った藤原氏と同じように、「十字軍に加わることで、これまでの罪を贖い、天国に行く」ことを本気で考える王侯貴族もいた。有力者の中には、次男坊、三男坊を十字軍に送り出して厄介払いしよう、オリエントに領地でも見つけて残ってくれ、くらいに思っている者もいたことだろう。教会の禁を冒して妻帯のまま聖職についていた有力者の子弟たちは、十字軍に妻とともに加わって贖罪免状を得ようとし、一獲千金を夢見る貧困領主もこれに加わった。北フランスの農民は家族・家財一切を荷車に積んで加わり、エルサレムに理想的共同体を作ろうとした。後で言うが、これらすべてを東ローマ帝国の領土でやろうというのである。

こうして、第一次十字軍の主力は、一〇九六年八月に西欧から進発するのだが、それは派遣を要請した東ローマの皇帝アレクシアスの予想をはるかに超える規模に膨れ上がっていた。五つの勢力から成っていたが、そのうちフランス国王フィリップ一世の弟Hugh of Vermandoisが率いた軍は、アドリア海峡を渡る際に遭難してほぼ壊滅した。
二番目はドイツのLower Lorraine大公のGodfrey of Bouillonが率いたもの。ドイツと言っても、フランスに近い地方からで、彼自身はフランス語をしゃべっていた。この勢力はハンガリーを経由して東ローマ帝国領を問題なしに通過し、十二月末、コンスタンティノープルに到着する。

第三の勢力は南イタリアを侵略・支配していたノルマン人で、Bohemondが率いた。アレクシアス皇帝の娘アンナ・コムニニが書いた長大な歴史書「アレクシアス」(悠書館。相野洋三訳)によると、東ローマ帝国はこれを侵略勢力だとして警戒している。

第四、そして最大の勢力がフランスのToulouse伯爵Raymond of Saint-Gilles(五十五歳)が率いる軍で、彼が十字軍の総司令官格であった。これはアドリア海沿いの陸路を通過するが、Dalmatiaで東ローマ帝国軍と衝突している。

これは非常に重要なことで、我々は十字軍と言うと、「先進文明の西欧」の軍隊がエルサレムまで蛮族が跋扈する無人の敵地を突破して行ったように考えているが、実際には通路のほとんどが先進文明の東ローマ帝国領だったのだ。だから東ローマには、「ゲルマン人の大移動」の悪夢が蘇ったのである

そして第五の勢力は、ノルマンディー、フランドルからのもので、Robert of Flandersが指揮を執っていた。要するに第一次十字軍には、いずれの国からも国王の参加はなかったのである。

こうして、コンスタンティノープルには合計四千名の騎馬騎士、二万五千名の歩兵が集結した。東ローマ帝国にしてみれば、大変な負担と危険を意味した。東ローマはそれまでシチリアを占拠したヴァイキング転じてノルマン勢力と戦ってきたが、やってきた十字軍の中にはなんとそのノルマン勢力が入り込んでいた。十字軍兵士は時には市内で乱暴狼藉も働いたのである。

東ローマ皇帝アレクシアスは、十字軍に自分への忠誠を要求し、これからイスラムから取り返す土地は全て自分に還付するよう求めた。十字軍の中で、この要求をまともに受け止めた者はほとんど皆無であった。東ローマ帝国と十字軍の間には最初から不信があった

それでも十字軍はエルサレムめがけて進発し、途中シリアのアンティオキア制圧で数カ月を空費する。東ローマ皇帝アレクシアスは援軍に来るのだが、途中で気を変えて帰投してしまい、十字軍の信を完全に失った。十字軍は東ローマ帝国を憎しみをこめて、自分たちを見下す卑怯な「ギリシャ人」と呼んでいる。

一〇九八年十字軍はエルサレムを制圧し、軍の大半は西欧に帰国する。しかし一部は残ってエルサレムに王国を作り、イスラムから守っていくことになった。その頃周囲のイスラム勢力は割れていて、十字軍には勝てなかったのである。

――というのが、西欧の側から見た十字軍なのだが、東ローマ帝国の方からはずいぶん違うように見ていた。一言で言えば、「(昔西ローマを簒奪したケルト人、そして蛮族〔ゲルマン〕)が大軍で押し寄せてきた。キリスト教化し、エルサレムを目指すと言っているが、真の狙いは東ローマ。気を付けよう)というものだ。これは、十字軍を招請したことになっている東ローマ皇帝アレクシアスの娘、アンナ・コムニニが書いた分厚い歴史書「アレクシアス」(相野洋三訳、悠書館)に書かれている言葉である

実際、「十字軍」は諸方で、東ローマ帝国軍と衝突・戦闘を繰り返しているのである。この「アレクシアス」には、東ローマ帝国がローマ法王に支援要請の使節を送ったことは全然書かれていない。ある日突然、西方から得体のしれない軍隊がいくつかの方面から入ってきたことになっている。

だから、東ローマ皇帝がローマ法王ウルバヌス二世に支援要請を送ったというのは、作り事だったかもしれない。東ローマで帝位を狙う者が、西方からの兵力を引き入れて、自分の野心を達成しようとした可能性は十分あるし――実際、第4次十字軍はそのようにして派遣され、ビザンチン皇帝を一時亡命に追い込んでいる――、前記のアンナ・コムニニは父のアレクシアス皇帝死後、権力争いに巻き込まれて一生幽閉されているのである。

だから「十字軍」と言うと、いかにも聖なる企てであったかのように思われているが、実際には5世紀のゲルマン民族大移動が600年後になって、東ローマにも及んだことに過ぎないのだ、とも言える。アンナ・コムニニは、西方から来た武将たちの横暴さを散々書き綴っている。


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