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世界はこう変わる

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2021年9月11日

近代民主主義は工業化と中産階級の成立を基盤とする

(これは、8月24日に発行したメルマガ「文明の万華鏡」の一部です。民主主義についての抽象的な議論ではなく、英国で議会制民主主義が形成されていった生々しい過程を追ったものです)

 タリバンは、「民主主義は採らない」と言っていて、これに西側は反発しているが、この議論はかみ合ってない。タリバンの言う「民主主義」というのは、選挙とか議会とか欧米型のシステムを意味する。長老会議のような形での民主主義は、タリバンも実行しているのだ。問題は、多数の人間が意思表示をするのに、欧米の議会制民主主義に代わるやり方があるのかということ。そして多数の人間が意思表示をしたがるには、生活水準が上昇して権利意識が芽生えないといけない、ということなのだ。
そのあたりのことを示すfactsを、イギリスの16世紀以降の過程から示しておく。これは今書いている「世界はどうしてこうなっているのか。どうしたらいいのか」という本の材料からとったものだ。多分出版社見つからないだろうけれど。

イギリスの議会制民主主義は、西欧諸国の中でも先頭を行く。16世紀後半、ヘンリー8世が議会を先頭に立てて、ローマ法王下のカトリック教会(議会は教会との間で立法権が抵触していた)と戦ったことが議会の力を強くした。そしてヘンリー8世が接収したカトリック教会の土地資産を買い上げて力をつけたジェントリー層が、議会を支えた。

1649年、カトリック勢力を足場に王権の強化を図ったチャールズ1世は斬首され(清教徒革命)、イギリスは以後1660年まで国王のいない共和制となる。実際はその大半、クロムウェルを護国卿とする軍事独裁であったが。

彼の死後、王政復古で盛り返したカトリック勢力を抑えるために、英国非カトリック勢力は1688年、オランダからプロテスタントのオレンジ公を招いてウィリアム3世とし(と言うか、彼の妻のメアリー((ジェームズ2世の娘で継承権あり))、オレンジ公が自分にも王位継承権があると言って((斬首されたチャールズ1世の孫なので))、軍を引き連れ上陸、妻と一緒に国王になったもの)、名誉革命を演出した。その時議会は、「権利章典」をオレンジ公転じてウィリアム3世に呑ませて、議会の力を保持する。

その後も、国王は宰相・内閣を指名する力を維持するが、18世紀初頭ウォルポール内閣のあたりから、国王はその力を失っていく。議会はそのころ、ホイッグとトーリーに分かれて競争していたが、トーリーはホイッグがイングランド銀行を握って、国債取引の利権を独占していることに嫉妬。自らは1711年に「南海会社」を立ち上げ、ここで集めた金を貿易に投資して膨らませ、国債引き受けに参入しようとしたのである。その結果1719年、南海会社は株式を発行してその資金で国債を引き受けるやり方に認可を得る。

これで巷の株式会社設立熱に火が付き、これを抑制して自社の株だけに資金を集中させようとした南海会社は、これに失敗。1720年、自社の株価も暴落し、「南海泡沫事件」と呼ばれる一大スキャンダルとなった。と言うのは、多くの有力者が南海社の株を持っていて、多くは賄賂として贈与されたものではないかということになったからだ。

議会の調査の結果、国王ジョージ1世の愛人も「南海」社の株を持っていたことが判明し、国王は窮地に追い込まれる。この国王をうまく救ったのが、当時の宰相格のウォルポール。彼は第一大蔵卿(Chancellor)として1742年まで内閣を率い、国王の力を決定的に殺いだ。国王は1718年までは閣議を主宰していたのである。

当時の議会は、今の民主的なものから遠かった。1720年代、有権者は35万人で、成人男性の4名に1人。選挙区によっては、数十人の投票で当選者が決まることもあった。その上、記名投票だったので、有力者が有権者に圧力をかけることが可能であった。

しかし18世紀から19世紀にかけての期間は、貿易と産業革命でイギリスの経済が急成長を遂げた時期である。綿織物を中心とする産業革命第一波は大したことはなかったが、蒸気機関を利用した鉄道、鉄道建設のための製鉄を柱とする重工業化と貿易の急伸は商業、金融、運輸、保険といった第三次産業も急成長させ、その後も石油=自動車、電機、化学を中心に経済が一変した結果、各種プロフェッショナル、公務員、事務員から成るホワイト・カラー層が形成され、商工業者と並んで有力な中流階級を構成するようにもなった。当初、所得水準の伸びは、インフレに追いつかなかったが、1820年頃にはこれを追い抜いた。18世紀半ばまでは人口の過半を占めていた下僕、貧農の多くが都市に出て、中産階級となったのである。

 議会で争うホイッグとトーリーは、票獲得を目指して、この新しい中産階級に投票権を与えていく。また中産階級自身、労働組合を結成するなどして、権利の主張を強めたのである。1832年には、ホイッグ主導で選挙法を改正。有権者は57%増えた。これでも本質的な改革ではないが、19世紀初頭からは労働組合結成も盛んになり、1884年の第三次選挙法改正で、「労働者」が有権者の過半数を占めるに至る。

 そして二つの世界大戦はいずれの場合も、女性を含む国民全体を戦時体制に動員する総力戦として戦われた結果、政治と社会の民主化が決定的に進んだ。1928年には男女平等の普通選挙権が実現し、1944年に成立したバトラー法によって、義務教育の上限の年齢が15歳に引き上げられる一方、中等教育と大学進学における教育機会均等の原則がほぼ確立された。1911年には国民保険法が成立し、1942年には「揺りかごから墓場まで」の社会保障体制を求めるベヴァリッジ報告が公表され、戦後のアトリー労働党内閣によって、その少なからぬ部分が実施に移された。

戦争遂行のため、国民から税を絞り上げ、兵として戦場に送り出すために作られた近代国民国家は、今や国民全部の面倒を見なければならない存在となり、これが現在のポピュリズムを生む土壌となった。社会保障が悪いと言っているのではない。成り行きでこうなってしまったが、本来、中央政府が国民全員の面倒を見るようなことができるはずがない。票を得るために、何かでたらめを言って国民をだます=ポピュリズムとか、一時金贈与というような贈賄行為でしのぐことになる。それでも、自由・民主主義は手放せない。

以上のとおり。だから、民主主義の是非については、一見ダンディな、しかし表面だけひっかいた空疎な議論に惑わされず、経済、歴史、そしてさらに一番大事なのは、自分にとっては何がいいのかを踏まえて議論するべきだと思う。

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