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世界はこう変わる

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2019年7月31日

トランプは戦後の世界体制をどこまでこわすか その六 トランプは自由 民主主義を破壊したか そして英米型民主主義の行き詰まり

(これは、6月26日発行のメルマガ「文明の万華鏡」第86号に掲載したものの一部です)

 16世紀、西欧諸国は武力で東方、そして新大陸を征服すると、新大陸で収奪した金銀を元手に成長をはかり、18世紀からは産業革命で更に経済を飛躍させると、国内に広範な中産階級を作り出した。彼らをベースに、西欧諸国は近代の自由、民主主義、そして市場経済といった価値観を作り上げる。

 そして今、その近代の価値観、民主主義のシステムは、曲がり角に差し掛かっている。民主主義の極致である「普通選挙」――要するに成人は全員選挙権を持つという制度――は、政治を難しくする。2つや3つの政党では全員の意見を代表することはできない。政党達は社会保障を充実させることで票を獲得しようとしてきたが、そのおかげで先進国はどこも財政が麻痺している。移民とか中国を「敵」に仕立てて国民を煽ると、社会は一時的にはまとまるかもしれないが、これは危険なポピュリズム、いやファシズムである。

 この中で、民主主義の老舗である英米で特に、近代の行き詰まりが顕著である。英米と言えばアングロ・サクソンと言われるが、これは便利な呼称であるものの、事実には即していない。ゲルマンの一種であるアングロ・サクソンは英国の主流ではなく、英国の貴族に多いのは、11世紀に英国を征服したヴァイキングの子孫のノルマン系である。米国に渡った英国人はどちらに分類されるか知らないので、アングロ・ノルマン・サクソン系とでも言っておこうか。

 このアングロ・ノルマン・サクソン系の国家(英米と英連邦諸国)は不思議なことに、ほぼ軒並み小選挙区制の議会を持っている。小選挙区制は2大政党支配を生みやすく、英米ともそうなっている。そして英議会では激しいdebateをするものの、予算案、法案はすべて与党や政府の提出したものの通り、野党側からの修正は受けることなしに多数決で採択される。与野党間のウラでの妥協、調整が効きにくい。

そうなると今の米国のように、与野党の対立は妥協不能なものとなり、選挙で与党が代わると、前任者のしたことをすべて引っ繰り返す誘惑に駆られる。これは、一見民主主義のようでいて、相反する利害・主張の調整という、民主主義の機能を果たしていない。内戦が選挙に替わっただけだ。ノルマンの故地スカンディナビア諸国では、面白いことに小選挙区制・比例代表制の並立が一般的で(ドイツもフランスも)第3党、第4党がいるためか、与野党間の対立は米国ほど深刻ではない

他方、日本の民主主義は少し異なる伝統の上に築かれている。日本の農村は混乱の室町時代に強い自治権を獲得したものが多く、江戸時代も名主を核にムラ単位でものごとをコンセンサスで決めていたと思われる。ここでは、いわばムラの全員が与党であり、野党的な存在はあり得ない。Debateはあるが、それはコンセンサスを形成するための微調整の過程であり、黒か白かいずれかを多数決で選ぶことはしない。

明治23年、政府は不平等条約を改正するために民主主義国としての体裁を整える必要があったこと、土佐藩等、明治維新の時に権力の座に乗り損ねた連中が議会の開設を求めていたことから、国会を開設した。しかし、当初、薩長政府は国会をできるだけ「お飾り」的存在におしこめようと、予算案は政府しか提案できず、しかもその修正は認めないという姑息なやり方をした

戦後の日本国会は、米ソ対立を反映した2大政党制となった。米国の支援を受けた自民党と、ソ連の支援を受けた社会党である。自民党は社会の多数の支持を受け、40年間弱にわたって実質一党支配を続けた。但しそれは専制ではなく、江戸時代の農村と同じで、「全員与党」の中で利益をすり合わせ、コンセンサスをみつけていったのである。1993年、GATTの「ウルグアイ・ラウンド」で農業面での大幅譲歩が必要になった時などは、自民党内部だけで農村の現場との調整が可能であった。

終戦直後、米国はこのような日本型民主主義を認めず、自分たちの裁判方式のdebate--つまり黒か白か、有罪か無罪かというわけである――、与野党の対立と多数決による意思決定を唯一のモデルとして押し付けた(日本はそれを骨抜きにしたが)。そして今、彼ら自身、その黒白モデルの行き詰まりに苦しんでいるというわけである。

トランプはこれに、専制的、独裁的な要素を持ち込んでいる。彼はものごとを「調整」によってではなく、脅しとハッタリで決着をつけようとする。三権分立の趣旨など到底理解せず、裁判所も議会も「従え」ようとする。官僚、マスコミの使い方も一新し、自身の再選に必要な政策には「親政」を敷き、下僚の関与を認めない。そしてそのための広報はツイッターを使って、自らがマスコミとなる。不動産企業の社長ならいざ知らず、米国という世界一の超大国をこのようなやり方でいつまでも動かしていけるはずはない。

それでも、トランプのやり方は、必要以上に膨れ上がった官僚組織、そして真実よりも売り上げと視聴率確保のために事実を脚色するマスコミのあり方に一石を投じていることは事実である。こうした彼のやり方が大衆から歓迎されている以上、民主主義を大衆社会に合わせて改造していく議論は行われるべきだろう。

日本は今、人々の権利意識が向上し、「市民社会」が形成される途上にある。青年はものごとへの参加意識が強く、政治でもこれまでの代議制民主主義――自分達の「代表」と称する議員を選んで、彼らにものごとを決めてもらうシステム――を物足りないと考えている。首脳自身が自分の言葉でツイッターをするとか、大きな問題についてインターネットでの略式「国民投票」を実施するとかを考えていくべきだろう。

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