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2015年7月19日

世界史の意味 ユダヤ人という人たち4 17世紀欧州国民国家成立におけるユダヤ人の役割

これまで欧州経済史におけるユダヤ人の役割を追ってきた。一言で言って、今日世界の金融を牛耳っているかに言われるユダヤ人は、中世の欧州ではそれほどの地位を持っていたわけではない。この面でユダヤ人の存在が目立つようになるのは、19世紀以後のことだ。

ところで、欧州の経済史は一つのつながりをもって説明できるはずなのに、A,B,C,Dなどの事実がぽつん、ぽつんと説明されるだけで、AとB、BとDの間等の因果関係、推移が説明されない。五里霧中だ。例えば、ローマ帝国の経済的成り立ちが良くわからないし(通貨とか銀行機能とか、兵士の給料を払うための金をアフリカから入手していたが、その金の代価は何だったのか等)、西ローマ帝国が崩壊した後、経済的に何が起きたかについても、まだ定説はない。産業も、流通も大幅に落ちたとするもの(「ローマ帝国の崩壊」ブライアン・ウォード)から、キリスト教会と修道院が行政、産業の肩代わりをして、それほど文明の様相は変わらなかったとするもの(「古代末期の世界」ピーター・ブラウン)まで様々である。

西ローマ帝国崩壊以降、ヨーロッパ経済史にはいくつかの分水嶺が現れる。一つは11世紀の農業革命で(鉄製農具の普及や新しい農法による生産性の向上)、旧ローマ帝国より北方の地域の経済を成長させたものと思われる。それがあったので、地中海沿岸のヴェニス、ジェノヴァ、フィレンツェなどの通商都市国家(シルクロードの終点であるコンスタンチノープルと欧州の間の物流ハブ)が繁栄できたのであろう。そして、欧州北半分のための海の玄関としてブリュージュ、アントワープ、次いでアムステルダムの繁栄をもたらしたのだろう。オランダの大商船隊は、この北部欧州と地中海経済圏を海路で結び付けることで、オランダ、そして欧州全体の経済成長をもたらした。

次の分水嶺は16世紀から新大陸の金銀が大量に流入してきたことで、これが欧州にインフレを起こし、物価を数倍に上げたことは知られているが、同時に大いに産業を振興したはずである。当時、新大陸で欧州の毛織物衣料が珍重されたことになっていて(欧州からの移住者のためか、それともインディオ用。「マネーセンターの興亡」高橋琢磨)、それは毛織物生産の先進地フランドルの経済を大いに成長させただろう。しかし、その点についての詳しい研究は見たことがない。いったい、奴隷として酷使されていたインディオが、それほど毛織衣料を購買できただろうか。

また新大陸からの金銀はスペイン本土だけでなく、フランドルのアントワープ、次いでアムステルダム(新大陸の金銀を差配していたハプスブルク家にとって、自領のフランドルは同じく自領のスペインより規制も緩く、ちょうど今の中国にとっての香港のようなものだっただろう)にも随分搬入されて、欧州北半の経済を大いに刺激したようなのだが、これがどのくらいの量だったのかも、数字を見たことがない。

ちなみにアントワープはアジアからの香料の90%を消費した欧州北半の海の玄関となっていて、ここには香料を持ち込むポルトガルの商務官やジェノヴァの銀行、南ドイツ産の銀を基盤とするウェザー家、フッガー家等南ドイツの銀行が支店を持って、今の香港のような金融・貿易ハブになっていた。アントワープは1575年、スペイン王室のデフォルトで給料を失ったスペイン軍兵士に破壊され、アムステルダムが興隆するまでの短期間、新大陸からの金銀はジェノヴァに流入したようだ。これによって、よく引用されるジェノヴァの長期の低金利時代が現出するのだ。長期金利は2,5%台で長く推移した一方、マネー・ベースが急増したためにインフレが現出、低金利の下でのインフレという、奇妙な現象が起きた。イタリアの物価は1550~1620年に2.5倍になったと言われる。
ちなみにそのジェノヴァは、スペイン王室との癒着が強すぎて、1627年スペイン王室の(再度の)デフォルトで決定的に没落している。

16世紀後半は、オランダが新型帆船を開発したこともあって、前記のように地中海商圏、フランドル、バルト海商圏が海を通じて統合された時期でもあった。そして、地中海経済圏に蓄積されていた資本は、金融のノウハウとともに、北方欧州に及んでいく。その時になって、やっとちらほらユダヤ人の名が出て来る。例えばヴェニスの銀行家Del Bancoは、ドイツのWarburgに支店を構えてWarburgと名を変え、後に米国に大投資銀行を作っている。アントワープでポルトガルの商務官をやっていたホアン・ブランダンという男もユダヤ人だった(「デューラー ネーデルラント旅日記 1520-1521」)。しかしこれらユダヤ人は、別に欧州の金融を牛耳っていたわけでもない。産業・金融を牛耳るのは、結局のところそれぞれの国、それぞれの地方生え抜きのエリートである。ユダヤ人は、彼らに利用され、時に大衆の不満が溜まると「諸悪の根源はユダヤ人」としてスケープゴートにされることが多かった。

ここまでが実は前置きで、この号で叙述するのは、17世紀、つまり欧州で中央集権の絶対主義国家、次いで「国民国家」(中央集権国家の実権を国王が握っている場合は絶対主義、議会、つまり有力者たちが握っている場合は国民国家だと言えるだろう)が形成される時代のことだ。どのようにして国王の権力が強まって絶対主義になったかは、世界史の教科書にも良く出て来るのでここでは省くとして、その中央集権化の道具としての金融・中央銀行、そして「管理通貨」(紙幣)と国債が確立していった過程を、この号で追ってみたい。この時期、ユダヤ人の名もちらほらと出て来るが、前述のようにその存在は圧倒的なものではない。

先号で述べたアムステルダム振替銀行から出発しよう。アムステルダム銀行は、手形(現金を使わない非現金決済を可能にするもので、後の中銀による紙幣発行につながるもの)の交換を独占することで、あふれるマネーの流れのハブとなって大きな利益を得たもので、計算単位のギルダーは様々な通貨を換算する時の基本となり、基軸通貨のように作用した。

このアムステルダム振替銀行は、紙幣の印刷は行わなかった。紙幣を欧州で初めて大々的に(ヴェニスでは12世紀、ジェノヴァとの戦争費用を調達するため商人から金を集めたが、その利子受領権証書が「銀行券」として通用したことがある)印刷したのは、スウェーデンである。

当時オランダからスウェーデンに流れてきたJohan Wittmacher(後に貴族に列せられ、Palmstruchと改名)が国王グスタフ10世に取り入り1657年、自分を頭取としてStockholms Bancoを設立、アムステルダム振替銀行と同様手形の交換を独占、1661年にはkreditivsedlar(金銀と兌換可能の紙幣)を発行する権利を国王から得た。
グスタフ10世は初め、この銀行の設立を認めなかったが、Wittmacherが利益の半分を国王に供出すると約束した時、認めたのである。これで絶対主義国家⇒国民国家の不可欠の装置としての中央銀行、そして中央銀行による紙幣発行独占というモデルができたのである。もっとも、この銀行は紙幣を発行しすぎて、1668年には破綻、Wittmacherは投獄の憂き目を見た上、2年後には死亡している。銀行は1688年、Riksens Standers Bankに改名、国王から切り離されて議会の監督下に入った。

この過程で、ユダヤ人の名前は出て来ない。Wittmacherはアムステルダム銀行のノウハウを持ち込んだのだし、そこにはユダヤ人も当然関与はしていただろうが。
スウェーデンとユダヤ人の関わりが表面に出るのは、第2次大戦、オーストリアに勤務していたスウェーデンの外交官Raoul Wallenbergが、ナチに迫害されたハンガリーのユダヤ人数万名にスウェーデン行きのヴィザを大量に発行したことである。日本の杉原千畝さんのような件なのだが、なぜ彼がこのようなことをしたのかはわからない。

このWallenbergというのは、スウェーデン随一の銀行Enskilda Bankenを作った家族で、エリクソン、Electrolux、ABB(今ではスイスの企業)などスウェーデンの有力企業のいくつかを支配もしている財閥である。代々の当主の名前を見ても、ユダヤ系の名は見当たらない。この外交官は戦後の混乱の中、ソ連軍に拉致されて姿を消す。
フランスでは絶対主義が18世紀末まで続き、国民国家の樹立はナポレオンの時、つまり英国、オランダより100年以上後れているのである。フランスで中央銀行ができたのは、1800年である。それまでフランスは、紙幣、あるいは国債のような手段を活用しなかったのだろうか? 国王の権力が強かったので、課税と特定勢力からの借金だけでやっていけたのだろうか? 今日でもフランスは、人口一人あたりの金銀の量、貨幣流通量で世界一(「商業と金融」O.M.Powers)で、空中からマネーを作りだすアングロ・サクソン式経済とは一線を画している。

そのためかどうかは知らないが、欧州の覇権国となったのはイギリスだった。17世紀初めのイングランドは、内戦を終えて王室財政は疲弊していたし(だからエリザベス女王はスペイン船が新大陸から運んでくる金銀を英国の海賊=貴族に略奪させたのである)、人口ではフランスに到底かなわず、GDPが17世紀中央までオランダを超えることはなく、経済成長の点では全くのダークホースだったのだ。それが何で18世紀に産業革命を主導し、世界的な帝国まで作り上げるようになったのか。不思議な話しだ。そしてそのきっかけとなった清教徒革命、クロムウェルの独裁、名誉革命のあたりから、ユダヤ人の名、あるいはユダヤ陰謀論の走りが顔を出してくる。

例えば1641年清教徒革命の時、クロムウェルがチャールズ1世を除去すること、そしてユダヤ人の移住を許可すること(1290年ユダヤ人追放令が出ている)を条件に、オランダのユダヤ人から融資してもらったという説がある(www.realjewsnews.com)。実際、チャールズ1世は1649年処刑されているし、ユダヤ人の移住は黙認されるようになった。

しかし、この「オランダのユダヤ人」による融資が、当時の英国政治・経済を支配したものでもあるまい。当時のイギリスの経済成長については、1649年クロムウェルによるアイルランド占領の効果についての研究をもっと見たい。
これは1921年まで続いた占領であり、その間英国によるアイルランド搾取は酷薄を極め、19世紀半ばには大飢饉が起きてアイルランド人のアメリカへの大移住を引き起こしている。現代の英国は、アイルランド統治のことを思い出したくないのである。

清教徒革命以後の英国では、経済成長が顕著であったようだが、裏付けとなる研究を見たことはない。清教徒革命で国王に結び付いた利権が撤廃され、英国では一種の起業ブームが起きたようだが、これも資料の裏付けを欠く。

また17世紀の英国は、オランダにならって海運で富を築こうとし、商権を守るために海軍を建造した。それが国内の製造業を盛んにしたとの見方がある(これも数字の裏付けを欠く)。その製品、つまりガラス製品などの日用品をアフリカに持っていくと、奴隷と交換できた。当時の欧州諸国はベルギーのような小国に至るまで奴隷商売で富を築いていたが、英国はその筆頭格のようだ。アフリカから1000万人以上の奴隷が連れ去られたが、奴隷を北米大陸で売ると現在の金で一人150万円ほどで売れたという記録が残っているので、これはこたえられない商売であっただろう。

英国商人はその金で北米の煙草や砂糖を買い付けると本国に持ち帰り、売却した。これを「三角貿易」と言って、産業革命前の英国の資本蓄積に役立ったものと言われているが、そういうことをやっていたのは英国だけではあるまい。また当時のインド及び中国との貿易の方は、英国の一方的な貿易赤字であったはずだが、実態がよくわからない。当時、インドの綿織物は毛織物にはない軽さで欧州でブームを呼んだと言われるが、それが後の英国では国内生産に切り替わり、それが産業革命になっていった過程(1733年ジョン・ケイによる飛び杼の開発から、1771年アークライトによる水力紡績機開発までは約40年もかかっている)も、十分にはわからない。

17世紀半ばの英蘭の力関係はどうであったのか? アムステルダム振替銀行と東インド会社を逸早くスタートさせ、新型帆船の大量生産で世界の海運を牛耳ったオランダは、当時の超大国的地位にあったと思われ、英国はそのオランダの力を少しずつ侵食していった。1652年は第1次英蘭戦争があり、以後両国は1780年の英蘭戦争まで4回戦うのである。ところがその合間には英国とオランダがフランスに対抗するため手を握る局面があり、17世紀後半以降、オランダから資本が英国に大量に流れて行くのである。オランダ国内では投資先が足りないため、余剰の資金が少しでも利益の上がるところを目がけて流れていくのである。それがオランダの対抗勢力英国を育て、最後は1780年の英蘭戦争でオランダは決定的敗北を喫するのだが、これは今日の日本と中国の関係を思わせて身につまされるものがある。

オランダと英国の提携が頂点に達したのは、1688年の名誉革命である。そして、このあたりで、「オランダのユダヤ人」の名がかなり色濃く出て来る。名誉革命は、英国内のプロテスタント派がカトリック派を排除し、新たな国王として英国王の姪メアリーを嫁ぎ先のオランダから呼んだことがその大筋である。ところがメアリーの夫、オランダ人のオレンジ公は手兵を引き連れて妻メアリーより早く英国に上陸、ロンドンに進軍して、「ウィリアム3世」となる。本流の妻メアリーもその後からやってきて「女王」となるのだが、この時の二人はオランダの影響力を体現している。ユダヤ陰謀論は、これはオランダのユダヤ人資本家が、「銀行」の設立を認めようとしないジェームズ2世を除くためにやったことだと主張しているが、証拠は提示していない。

ウィリアム3世は、オランダの富を狙って戦いをしかけてくるフランスとの戦いに明け暮れて、英国にいることは少なかったのだが、これは別にオランダのユダヤ人資本家のためにやったことではあるまい。当時の英国はオランダにその力を利用されていながら、蔭では大海軍を建造し、1780年の戦争ではオランダを決定的に破るとともに、1772年アムステルダム株式取引所大暴落をきっかけに、欧州の金融取引ハブの地位を奪っている。

名誉革命から間もない1694年、バンク・オブ・イングランドが設立されている。完全な民営銀行だが、英国債を売買する独占権を国王から与えられていた。紙幣発行権はこの頃持っていなかったし、民営だったので、中央銀行とは言えない。しかし1844年には紙幣発行独占権を国家から得るし、1946年には国営化されて、名実ともに中央銀行となる。

中央銀行になったのは後のことだとしても、国債を大量に消化して国家財政(17世紀当時は海軍建設予算が最も重要だった)を支えたことでは、バンク・オブ・イングランドは英国という国民国家を支える最大の道具の一つになった、国民国家の重要な道具としての国債というモデルを確立したと言えよう。

このバンク・オブ・イングランド設立のアイデアを政府に売り込み、実現したのはスコットランド人William Patersonである。彼は一種の山師で、現在のパナマを植民地とするアイデアをオランダやスコットランドに売り込み、それを信じてパナマに手を出したスコットランドの財政を破綻させて、今日に到る英国との合併を余儀なくさせた張本人である。
彼はイングランド銀行の方では、さしたる問題を起こさなかった。このイングランド銀行のアイデアはアムステルダム振替銀行にならったものであるが、パターソンはスコットランド人だし、イングランド銀行の設立にユダヤ人の介在を思わせるものはない。パターソンを用いてイングランド銀行を設立したチャールズ・モンタギュー(Montagu)財務長官も、ユダヤ人ではあるまい。

英国金融界におけるユダヤ人勢力が顕著になるのは、19世紀になってからのこと、ロスチャイルドがナポレオンとのワーテルローの戦いでの英国勝利の情報をいち早く入手して、「戦敗」の誤報で底値に下がっていた英国の株を買いまくってからの話しである。ロスチャイルドは19世紀初頭までには、一家の本拠をアムステルダムからロンドンに移していた。オランダは凋落を続け、1810年にはナポレオンによってフランスの直轄地とされて、一時滅亡するのである。中国とアメリカに挟まれた日本の運命を思わせる話である。

コメント

投稿者: Anonymous | 2015年7月24日 02:17

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