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世界はこう変わる

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2015年5月10日

世界史の意味 ユダヤ人という人たち3――地中海世界からオランダへ

(これは、「まぐまぐ」社から配信しているメール・マガジン「文明の万華鏡」第36号に掲載したものの一部です。全文をご覧になりたい場合、http://www.mag2.com/m/0001519110.htmlを参照ください)

ユダヤ人と呼ばれる人たちが金融業で頭角を現したのは、中世の地中海世界である。これが欧州北部のハンザ同盟地域などへも進出していった過程については、このメルマガ第34号で書いたが、今月は17世紀欧州経済、いやほとんど世界経済での覇を唱えたオランダにおけるユダヤ人の活躍ぶりについて書くことにする。

オランダはどうして発展したのか?
オランダという国は民主的で、それゆえに政争が絶えず、総選挙後の連立政権が数カ月も組めないことも珍しくない。面白いことにオランダは中世から民主的で、それゆえに政治的ガバナンスは100点満点のうち20点くらいしかなく、国内は各州に分かれてばらばらだったのだが、経済は不思議に強かった。あのガバナンスでよく、と思うのだが、その理由は今でも完全にはわからない。

オランダ、ベルギー(まとめてフランドル、またはフランダースと言われるが)を欧州の中での経済先進地域にした要因をあえて探してみると、一つにはライン川河口、つまり経済力豊かなドイツ南半分にとっての海への出口を擁していること、ローマ時代から英国に向けての軍道もライン河畔に沿って今のロッテルダム近辺まで走っていたことが挙げられる。ローマ文明は技術・文芸だけでなく、進んだ日用品、奢侈品の広域取引をも可能とした、当時のグローバル市場である。今でもロッテルダム近辺を鉄道で走ると、その広大な港湾施設に「ああ、これは背後の広大なドイツ経済圏の海への出口なのだ」と実感するのである。

もう一つ、フランドル地方の経済力の基礎となったのは毛織物産業。ここらの地味の乏しい土地では羊を飼うことが以前から盛んだったし、染色技術が優れ(やはり、軍道を通り、イタリアから伝わってきたのだろうか)、その面で独占的地位を築いていたからだ。英国は17世紀になるまで、自国で染色しても太刀打ちできないために、羊毛を染めないままフランドルに送っていたのである。つまりフランドルは加工業だが、英国は資源供給の地位に貶められていたわけだ。

もう一つ、フランドルの経済力を飛躍的に高めたものは、貿易と国際金融だろう。それはオランダ商船隊が東南アジアの香辛料をアントワープに持ち込んだこと(アントワープに市場インフラが整備された経緯はまだよく調べていない)、オランダがそれまでの5分の1の数の乗組員で操作できる新型帆船フリュートを1570年に開発して大量に建造したことで、地中海と北欧州を結ぶ航路、そしてのちには国際航路を独占するに至ったこと、スペインが新大陸からの金銀をアントワープに持ち込んだことによる。

なんでスペインはセヴィリアではなくアントワープに金銀を持ち込んだのかというと、当時スペインのハプスブルク王家はフランスの王家と争っていたから、カネのあるドイツ方面で金銀を売却するならフランスを飛び越えたフランドル地方――ここらあたりはハプスブルク家の支配下にある。ドイツもハプスブルク家の下にあった――に持ってくるのが自然だったのだろう。つまりフランドルはその自由で民主的な政体もあって、まるでハプスブルク家にとっての香港のような意味を持っていたと思われる。

この新大陸からの金銀は、当時の欧州経済を根底から変えたようだ。欧州はカネあまりになって、周知のとおりジェノヴァでは17世紀初頭に11年間、長期金利が2%を下回っている。他方、物価は上昇した。モノの生産が追い付かなかったのだ。欧州の物価は8倍になり(「ウェストファリア条約」明石欽司)、封建領主を窮乏化させて、絶対主義への道を開いた。他方、豊富な金銀を使って、アジアからの輸入が増えた。紅茶や綿織物が欧州人の日常生活に入り込み、後にこの綿織物の国産化を契機に産業革命が生起する。

そしてオランダは1609年、「アムステルダム振替銀行」を設立、手形(現金を使わない非現金決済を可能にするもので、後の中銀による紙幣発行につながるもの)の交換を独占することで、あふれるマネーの流れのハブとなって大きな利益を得たのだ。通貨ギルダーは様々な通貨を換算する時の基本となり――つまり基軸通貨――、アムステルダム振替銀行には地金や低品位の貨幣が流入して、品位の高い貿易用貨幣に鋳造し直された。

オランダが金融の中心になる前は、ジェノヴァがヨーロッパ最大の金融市場、金の市場で、すべての通貨の為替相場を決定していたらしい。しかしオランダは1570年に前記の画期的な新型帆船フリュートを開発し、地中海商圏と北欧州商圏の連結を独占し、それを海軍で守ることで、ジェノヴァの地位を奪った。このあたりは、分厚い「「最初の近代経済」J・ド・フリース/A・ファン・デァ・ワウデ 著に、少し書いてある。

それでも、ジェノヴァやヴェニスから繁栄の中心がオランダ等に移行していった過程は、もう少し生々しかったはずで、このあたりもう少し知りたいと思う。この移行の過程では、ジェノヴァ、ヴェニスからイタリア人やユダヤ人の銀行家も随分オランダへ移住したことだろう。

1602年に「東インド会社」が設立されたことも、オランダ経済にとって大きな意味を持っている。これはアジアの植民地を対象とした投資銀行のようなもので、百科事典ブリタニカによれば、解散するまでの200年間、平均18%の配当を払い続けたそうだ。

オランダの大国化におけるユダヤ人の役割
オランダのことばかり話してきたが、このアムステルダム振替銀行、東インド会社設立のあたりで、ユダヤ人の名前が登場する。
スペインやポルトガルのユダヤ人は15世紀後半、カトリックへの改宗を迫られて以来(それまでユダヤ人は教会税支払いを免除されていた。スペイン王室はローマ教会と提携していたから、イスラム勢力を完全に駆逐したところで、ユダヤ人に対して強く出たのだろう)くすぶっていたが、オランダ独立戦争あたりを契機にイベリア半島からオランダにかなりが移住、ユダヤ教に再改宗した上(オランダはプロテスタントで宗教的規制が緩かったし、経済は上昇気流に乗っていた)、アムステルダムに西欧最大の居住地を構築した(「スペインのユダヤ人」関哲行)。

アムステルダムはユダヤ人の間で新エルサレムと呼ばれ、東インド会社の株の4分の1をユダヤ人が所有した(「ユダヤを知る事典」P74)。最大の株主はIsaac le Maireという名だったそうで(百科事典ブリタニカ)、名から判断するとユダヤ人だろう。

ユダヤ人は、タバコ、精糖、ダイヤモンド研磨、印刷業といった新興産業にもたずさわった。今でも、ベルギーに本社を置くダイヤの世界最大手デ・ビアスは、ユダヤ系企業である。1672年にはアムステルダムのセファルディーム共同体は2500~3000人規模に達した(「スペインのユダヤ人」関哲行)。因みに、北米の「ニュー・アムステルダム」(後のニュー・ヨーク)にもユダヤ人が大勢移住し、120万人近くと世界最大のユダヤ人居住都市を形成した。New Yorkではなく、Jew Yorkだと揶揄される所以である。

アムステルダム振替銀行は、1587年に設立されたヴェニスのリアルト銀行を手本にして設立されたらしい(「最初の近代経済」P118)。リアルト銀行はヴェニスの名家の若い連中が新機軸として打ち出したものらしいが、手形の処理を独占することで政府を上回る財力を手に入れることを可能としたものである。しかし、リアルト銀行やアムステルダム振替銀行でユダヤ人が果たしていた役割は、はっきりしない。「金融と言えばユダヤ人」というわけでもなく、イタリア人も随分活躍していただろう

未確認の資料では、17世紀にロスチャイルド家が金融業を創業した時は、ヴェニスの諜報機関の財務を担うThurn & Taxis家(欧州の郵便制度を開発した家柄で、今で言えばドコモとかソフト・バンクの類。郵便を握っていれば、情報は随分入ってくることだろう)をスポンサーとしていたそうだが、これは政治権力がユダヤ人の金融ネットワークを利用したのであろう。また先回述べたように、ドイツのWarburgに居を構えたユダヤ資本Warburg家は、ヴェニスの銀行家Del Banco家の子孫である。

いずれにしても、ローマ帝国で成立した地中海経済圏は、ジェノヴァ、ヴェニスなどを中心に栄え、その資力と金融ノウハウはオランダを経由して英国、米国へと伝播、その中でユダヤ人も大きな役割を担ったというのが、公平な言い方なのだろうと思う

このオランダは17世紀には大国となったから、江戸時代の日本も出島を作ってまで通商を維持した。もっとも、オランダの商船が長崎に持ち込んだのは中国の産品が多かったそうで、それは今でも変わらないか。

オランダはその後から台頭してきた英国と覇を競い、数度戦争したあと18世紀には完全に負けるのだが、その間オランダから英国に国王が就任したりして(名誉革命)、その関係は対抗一本槍ではない。むしろオランダの資本は(その中にはユダヤ資本も多い)、新興国英国、特に英国の国債に投資したようで、英国の興隆で儲けている面もある。今の日中関係、米中関係を髣髴させる。そして、その中におけるユダヤ人の役割ももちろんあるのである。

ということで、次回は英国発展におけるユダヤ資本の役割を調べてみることにしたい。

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