中国という異次元超大国が世界一になる日
中国――異次元の超大国
――中国がGDPで世界一になる日に備えて――
2011年12月10日
Japan and World Trends
www.japan-world-trends.com
河東哲夫(かわとうあきお)
中国はあと数年で米国のGDPを抜く
中国の名目GDPは2010年約6兆ドル相当で、米国の約14.5兆ドルのはるかに下だ。だがIndexMundi の購買力平価計算http://www.indexmundi.com/china/gdp_(purchasing_power_parity).htmlによると、中国のGDPは2010年で約10.09兆ドル、しかも毎年0.8兆ドルくらい増えているので、米国にあと数年で追い付くことになる。
これは、世界史の一大転機だ。世界は冷戦終了時を上回る経済・安保体制の調整(冷戦後はただ旧ソ連、中国を西側の体制に組み込んだだけで、NATO、日米同盟、IMF、WTOなどはそのまま残っている)が必要になるだけでなく、西欧の発展がもたらした市民社会・民主主義の価値観も再吟味を必要とするだろう。但し、中国経済もその人口構成に照らしてみると、今が成長のピークであり、これからは成長率を低下させると予想されているので、過剰反応もまた禁物である。
「脆い中国経済」についての数々の議論
これまでは、中国経済が抱える数々の脆さを前面に出して考え、中国経済がダイナミックな米国経済に追い付くことはないとする見方が強かったし、僕もそう思っていた。それらの論点を整理するとこんな具合だ。
①「統計がいい加減だ。中国は世界の中でも最も速く前年のGDP統計を発表するが、あの大きな国でそのようなことができるはずがない。事前に『決めてある』に違いない」
僕も、その通りだと思う。だが中国の統計は、それがいい加減であることによって、実態より低い数字を示している面もある。ソ連のシステムを使っていた時代の名残で、行政サービス、膨大な数の個人営業等がGDP統計に含まれていない。国有企業の内部取引としてGDPにカウントされなかった取引も含めると、中国のGDP統計は今よりベースが膨らむだろう 。
②レスター・サローMIT教授の見解(2010年8月1日 日経)
「10%成長は都市部に限った話で、地方に住む9億人はゼロ成長だ。中国全土が10%成長するには、都市部の4億人が33%成長しなければ牽引できない。地方を含めれば中国の成長率は3%だろう。
08年の中国の1人当たり国内総生産は3400ドルだ。米国は4万7000ドル。中国の過去20年の平均成長率が続いても、追い付くには100年かかる。米国の成長率が英国を上回り始めたのは1830年。経済規模が英国を上回ったのは第1次世界大戦後の1919年のことだ」
これももっともに聞こえる議論だが、中国当局は後出のように中国の都市人口は6億5千万人だと発表している。しかも農村部からは多数の出稼ぎ者が都市に出て、GDPを膨らませている。さらにサロー教授は、購買力平価や元切り上げの可能性を勘案していない。
③「中国経済は輸出で稼ぎ、それを国内の不動産投機に注ぎ込んで膨れ上がった、バブル的性格を持つ。リーマン・ブラザーズ金融危機とそれに続くユーロ危機で西側への輸出が減少し外貨の流入が止まると、財政支出拡大で内需を刺激し2-3年はしのぐことができても、限界があるだろう。インフレになってしまうからだ。内需増加のテンポには限界がある」
④おなじみの「中国では格差が大きいから云々かんぬん」という議論。
これは、日本の社会の方が中国の社会より良い、ということを言いたいのだったらわかる議論だが、格差があるから成長できない、ということにはならない。日本の戦後経済も中卒者の集団上京就職とか、農村からの出稼ぎとか、まさに格差を使い、格差を解消しつつ高度成長を遂げたではないか。
⑤「中国では国営企業が多く、彼らは採算性、市場性の原則で動いていないから競争力に欠ける」
その通り。だが彼らは中国市場を抑えていて、自動車など外国企業に単独では作らせない。
いつまでたってもダメにならない中国経済
机上の議論ではこの通りなのだが、実際に中国に行くと、百万都市は無数にあるだけでなく、人口20万余の地方都市にも高層ビルが並び立っている。インターネットで「中華人民共和国城市列表」を見ると、殆どの都市が名刺代わりのように「高層ビル林立」ぶりを写真として出している。中国では高層ビルも野菜のように市況商品なみの扱いだから、殊更に驚かなくてもいいのだが、大規模ショッピングセンターが方々にあって満員の盛況を呈しているのを見ると、僕はそろそろ圧倒され始める。昔ながらの粗末な民家が並ぶ小路に行っても、露店にはネギや果物が山のように積まれ、食堂に入れば3人前とみまがうような料理を1人前で出してくる。そして食品はまだ相変わらず安いのだ。
中国では都市人口が6億6500万人いることになっていて(2010年11月時点。2011年4月28日新華社報道)、どの都市も人がうじゃうじゃいる感じ。しかも、彼らは生きるためにいつも何かやっている。新車で大渋滞の脇を馬車やリヤカーが走り抜ける。すごい競争と熱気だ。
ウィキペディアの「中華人民共和国城市列表」は77の都市を列挙しているが、ここから台湾の諸都市を除いて計算してみても、2億400万人になる。そしてこのリストにのっていない都市はそれこそゴマンとあって、辺境と思われている甘粛省の聞いたこともない白銀市が人口174万人、臨夏市が25万人、こうした地級市は283もある。
アメリカの場合、人口10万以上の都市は275しかなくて("List of United States cities by population", Wikipedia)、そのうち僕にとっての「アメリカの地方都市」原風景、イリノイ州のカーボンデールという田舎町(人口12万6千人)を例にとると、僕がここのサマースクールに行った40年前以来、その「原風景」は変わっていない、つまり5階建以上の建物など見えないのだ。アメリカのアッパー・ミドル以上の人の生活はまだかなり裕福だが、中産階級も下以下になってくると、その消費生活は非常につましい。収入はまあ中国の2倍くらいしかなく、価格も中国よりは高めだから、その消費水準には大きな差がないかもしれない。
ということで中国都市人口6.6億人の半分の3億人がまあまあの生活をしていると想定すると(それは米国の総人口3億人強に匹敵する。なお米国では約5000万人が貧困層に分類されている)、その食費、光熱費などをアメリカ並みの価格で計算し、さらに世界の工場として組み立てている耐久消費財、そして筍のように増える高層ビル、マンション、そして毎年数千キロものテンポで伸びてきた高速道路、高速鉄道を加えると、それはもう米国のGDPを超えているかもしれない。Indexmundiによる購買力平価計算では、2010年時点で10.09兆ドル、米国は同時点で14.5兆ドルなのだが、中国の購買力平価GDPはこの数年毎年1兆ドル弱の勢いで伸びているので、米国のGDPを抜くのも時間の問題だ。
ワシントンでは、「2020年までには中国が米国のGDPを抜く」という見方が増えているそうだが、知らぬ間にもう抜かれているかもしれない。ここらあたりになると、アメリカ人の思考も停止状態を呈していて、あまり考えたくないらしい(僕も考えたくない)。
そうは言っても中国は、世界ではまだ新人
「中国がNo.1になる」などと言うと、長いものには巻かれろ式の人間たちは走り出す。マッカーサーが進駐してきた時、これを「歓迎」する手紙を送って、うまい話にありつこうとした連中だ。他ならぬ僕も、対米自主外交の好機ではないかと浮足立つ。
だがちょっと落ち着いて考えよう。中国はGDPが世界一だと言っても、それをパワーとして外界で使えるほどにはなっていない、ということだ。
どういうことかと言うと、まず通貨の人民幣が交換可能通貨でないから(交換可能にすると外国人が値上げを狙って人民幣を大量に買い上げる。人民幣のレートは跳ね上がり、次の瞬間には1997年のアジア危機の時のように西側の銀行から資金を引き揚げられて人民幣は大暴落する)、貿易でも経済援助でも、結局は持っている外貨準備の範囲内でしかできないのだ。人民幣を援助として沢山もらっても、それは中国に対してしか使えないから、もらった政府も嬉しくない。どうせ中国の建設企業が中国人労務者を連れて乗り込み、中国の資材を使ってもちの悪いインフラを作ると、そのつけだけは外国政府に払わせることになるからだ。まるで中国の内需拡大のつけを、外国政府が払うようなものだ。
そして中国は、世界の標準ではない。中国語は英語みたいに使われているわけではなく、同文同種の日本人にさえ習得が難しい(英語も難しいが)。世界中のインテリは英語の新聞、雑誌、テレビを読み、見て、ものごとを判断する。中国政府も英語で盛んに発信しているが、宣伝臭のするものは誰も見ない。つまり中国は、世界の共感を自分に引き寄せることでは、大きなハンディを負っているのだ。
軍事力でも中国は、米国にまだ20年は劣るだろう。個々に優れた兵器を開発したように見せかけても、それをシステムの一環として有機的、合目的的、そして恒常的に使っていく点では、米国に劣るだろう。
さはさりながら「中国がいい」、「中国でいい」人たちは・・・
それでも、「中国がNo.1になった」となれば、日本人の心象風景はずいぶん違ってくるだろう。戦前日本の外交では、英米派と枢軸派そして大陸派が対立した。マルクス主義の知識層はそのどちらにも属さなかったが、中国侵略には反対だった。英米派も中国への侵略には反対していた。そのなかで関東軍は中国侵略を続けたから、日本は大東亜共栄圏もできない一方で英米を敵に回す格好となり――つまり全く孤立して――、無惨な敗戦を迎えたのだ。
戦後日本は米軍に占領された上、冷戦が始まったことで、外交の対立軸は一変した。英米派はもはや親中ではあり得なくなった。代わって親中になったのは、戦後「世に出た」マルクス主義の知識人層である。そのマルクス主義勢力・親中勢力は反政府勢力でもあった。大衆は外交路線を考える時間もなかったし、所得増大をもたらした日米同盟路線は是が非でも倒すべきものではなかった。
1985年のプラザ合意とその後の冷戦の終焉で、日本は世界の荒波に突き出され、米国は90年代をかけて経済の回復に努めた。米国がドル切り下げによる輸出の増大、移民の増大による内需の拡大、ITによる生産性の向上、そして何よりもドル垂れ流しによる金融ビジネスの異常増殖で経済を曲がりなりにも回復すると、2000年代前半の日本は空前のドル買い介入で円レートを下げつつ、対米・対中輸出(対中と言っても、中国で組み立て、欧米に輸出していた)で成長を確保できるようになった。それが2008年のリーマン・ブラザーズ金融危機で途絶し、今再度の円高で岐路に立たされている。つまり、米国から得られる経済的利益は再び減少したのである。
更に2009年には政権が民主党に交代した。民主党の中には、かつての反米・マルクス主義勢力が多数いる。彼らは普天間基地移転をめぐって米軍常駐不要論を展開し、東アジア共同体を形成することで米国をアジアから除外しようとした。
これまで日米同盟を容認してきた大衆は、バブル崩壊以来20年も所得が下がり気味、雇用も危ないという状況で、その「犯人」をいつも探している。自民党、大蔵省、外務省を血祭りにあげ、今その矛先は日米同盟、と言うよりは日米同盟を支え、ここから甘い汁を吸ってきたかに見える「日本のエリート」全般に向けられる。TPPへの反対は、そのような情念に乗って政局を作り出そうとする意図を反映もしているだろう。
日本はこうして、国論が憎悪さえ伴う分裂状態を示したまま、何も決定することができないまま推移していくだろう。米国は、海兵隊の日本駐留を減少させ、これをアジア全域に「分散」させると同時に、陸海軍についても日本でのプレゼンスを更に縮小して有事駐留の方向に転じようとするかもしれない。
戦前は関東軍の独走を止められなかったが故に孤立し戦争に至ったが、今回は関東軍はない。今回は国論が分裂して何もできず、それだけで孤立するのだ。中国などから恫喝されても、米国は守ってくれず、それどころか米国は中国と取引をして、中国と米国の間をふらふらする日本を実質的に分割管理しようとするかもしれない。たとえばキューバはソ連陣営に入ったが、米軍の基地は今でもある。
このような状況のなかで、中国がGDPで世界一になる。これは、既にぐらついている日本の世論を、いや民主党政権の内部をも大きく揺らすことになるだろう。そして米国自身も。
安全保障の軸足を米中どちらに置くのか?
だからここで、みんなよく考えて、今後20年間くらいは変えないですむような基本的な方向を考えないといけない。米国、中国という両大国の間で日本はどういう基本的な路線をとっていくのか。
完全な自主防衛は不可能だ。核兵器を持っていないから、核兵器で威嚇されると、もう政権はもたない。では米国と中国の間でいつもコウモリのように渡り歩き、両者の対立の中で漁夫の利を占めればいいかというと、日本はそんな機敏な外交はできない。普天間の移転だけでも、もう15年かかっている国だ。日本は、安全保障面での提携先を一度選んだら、一貫して提携を続けるやり方しかないだろう。同盟関係、安全保障の枠組みというものは、当事者間の大変な信頼関係と連携、そして膨大なインフラの上に成り立つものだから、雨の日には長靴、晴れの日には革靴という具合にいつも替えることはできない。
ではどこと提携するのか、なんで米国でなければならないのか、というところで日本人は揺れる。日米関係を司るエリートは、「日米は価値観を共有している」と難しいことを言うが、これは大衆レベルの心には響かない。確かに日本は民主主義だし――但し、アメリカの民主主義は多数決でものごとを決めていく、ダイナミックな民主主義だが、日本のは昔からの農村共同体の決定方式であるコンセンサス方式に民主主義の名前をかぶせたもので、自分ではものごとを決めにくい「受け身の」民主主義だ――、自由なことこの上ないのだが(それにしては、就活服などという時代錯誤が近年ますます強くなっているが)、大衆にとってはそれは空気のようなものだ。米国につこうが、中国につこうが、日本は日本のやり方でやっていけると思っているだろう。それに、イラク戦争では米国が民主主義を力で押しつけたというイメージが強いために、米国が自由、民主主義を唱えても以前の力はもはや感じない。
しかし、経済水準、生活水準が上がった社会では、人間の権利意識が高まり、民主主義になっていくのが普通だ。中国の社会はそれほど抑圧的でもないのだが、共産党一党独裁(野党と称するものもあるが)の国に安保で大きく依存した場合、日本人が手に入れた自由と権利は維持しにくくなるだろう。
日本の成長を支えてきたものはモノづくりだ。今それがいくら空洞化したと言っても、モノがなければ金融も流通も、その他のサービスも成り立たない。そしてモノづくりによる発展を支えてきたのは、戦後世界の自由貿易体制だ。従って日本は、自由貿易体制の勧進元で、かつ中国よりは他国を対等に扱ってくれる米国と、安保面で提携するのが自然だろう。それは、中国敵視を意味しない。中国に対しては、「必要な用心は講じながら、協力する」(engaging and hedging)で関係を推進していくべきだし、オバマ政権も正にそういう政策で臨んでいるのだ。
なお、「米中間の橋渡しをし、無用の対立を避けさせることに、日本の使命がある」という声もあり、TPPとASEAN+3の間の拮抗関係などを見ると、まさにここに日本の動く余地があると僕も思う。だが現実には、日本では「公開外交」が求められるので、そうなると日本の交渉代表はいつも手足をがんじがらめに縛られてしまう。米中の仲介をするために何かを言うと、それは国内の特定の利権を冒しかねないため、「お前誰に授権されて、そんなことが言えるのだ」という非難の矢が飛んでくるからだ。
オランダが(経済の)モデル
日本と中国の関係は、オランダとイギリスの関係を想起させるものがある。オランダは17世紀、海運を軸に大国の地位を築いたが、同じ発展モデルを志向した後進の英国と3度も戦争をしたが、1688年の名誉革命の拍子にオランダからウィレム3世が招かれ(実際は英国王権継承権では上位にあった彼の妻メアリー2世が招かれたのだったが)、ウィリアム3世となった時、英国の将来性と高金利に惹かれてオランダの資本が大挙して英国に流入した。それが英国が産業革命と植民地獲得を通じて超大国へとのしあがる大きな契機となったのである。その後1780年、オランダは英国と最後の戦争をして敗戦、アムステルダム株式市場は大暴落し、ロスチャイルド等のユダヤ人資本もロンドンに本拠を移す。
だがオランダは、窮乏化はしなかった。おそらくそれまでの蓄積を回して、経済規模を維持していたのだろうし(今日本が国債を使ってやっていることだ)、産業革命にもうまく乗って、今でもロイヤル・ダッチ・シェル、フィリップス、ハイネケン、ING、ミッタルなど世界的な企業や銀行をいくつも持っている。現在の人口は1660万人で英国の人口6200万人の3.7分の1。しかしGDPは7800億ドルで、英国GDP2.2兆ドルの2.8分の1もあるので、一人当たりGDPでは英国を30%ほど上回る。
安全保障の面ではどうかと言うと、オランダは第一次大戦では中立を維持するが、第二次大戦ではヒットラーのドイツに中立を冒され占領されている。今でもオランダ人とドイツ人は互いにあまり好き合ってはおらず、アウトバーンで傍若無人に飛ばすのは大抵オランダ人だ、ということになっている。
今オランダは絶対安全な境遇にあるが、それはアメリカを盟主としたNATOに入っているからで(NATOはもともと、ドイツが再び悪者になる場合に備えて作られたものだが、その後ソ連が主要な敵となった)、今の日本とは少し違う境遇にある。むしろ今の日本と似ていたのは17世紀のオランダで、フランスと英国という二つの勢力の間で英国を選び取り、国境を接するフランスから身を守ったのである。
価値観=何のために生きているのか、どう生きるのか
同盟国が必要なら、やはり価値観=生きることの目的やモラルの面で近い連中と一緒になった方がいい。「日米は価値観を共有している」などというお偉方の託宣をそのまま呑みこむことなく、自分で考えてみる。中国はどういう価値観を持った国か? アメリカ――ここはもう戦後の日本を闊歩した大柄の白人だけの世界ではなく、あらゆる人種が混合した一種の小宇宙になっている。アメリカという、法律と制度と価値観のルールに基づく一つの世界だ――での大勢はどんなぐあいか?
中国での価値観はねじまがっている。儒教とか仏教とかいろいろあるように見えるが、国民的な価値観とも言えるものが長期間にわたって一定していたことがない。その間一貫しているものは、金儲けと家族の間の支え合いだろうか。今中国政府は、アメリカから民主主義とかいろいろな価値を押し付けられるのに抵抗し、「北京コンセンサス」と呼ばれる価値観を称揚する。これは一昔前、アメリカが日本について言っていた、政府主導の経済体制とか、限定された民主主義の下の安定とかだ。当時の日本政府はもちろん、「自分はそんな国ではない」と言ってアメリカの非難を一蹴したが、中国はむしろ自分から「俺はこういう国だ」と言って、アメリカに抵抗する手段としている。
だから日本が中国と同盟を組むと、中国が日本に言ってくるのはまず、「お前と俺は兄弟だ。家族だ。但し俺は兄、俺は家父長。お前はその秩序を破ることなく、中国の言うことを聞くのだ」と言うことだろう。だが、自分の方ではそれほど「北京コンセンサス」を信じているわけでもなく、それは自分の利権を保持するための方便でしかない。自分たち自身は子女を欧米に留学に送り、外車に乗り、ロック音楽、クラシック音楽を嗜む。
アメリカの方はどうかと言うと、向こうは兄弟とか親子とか上下関係よりも、(表向き)対等な「友人」関係を基本とする。日米同盟は、日本はアメリカを守らなくてもいいなどいわゆる「片務的」な体制になっているため、かえって日本のアメリカへの依存が目立ち、その分外交でもアメリカに対して分が悪くなるのだ。アメリカの軍事力と同等の力を目指すことは不可能だが、日本がアメリカに力を合わせれば合わせるほど、日米関係は対等の要素が強まるという事情にある。
ではアメリカはどのような基本的価値観を奉じているかと言うと、この前のリーマン・ブラザーズ金融危機とかエンロン事件で明らかになったように、剥き出しの力と強欲を追及する悪い奴らがいるのは事実だ。だがアメリカのいいところは、社会の根底にはアカウンタビリティー(責任感・正直さ・公正さ)、フロフェッショナリズムと勤勉さとか、要するに人間の権利と良い生活を中心に据えた、ごく自然な価値観があり、強欲な者はいつかは排除される、ということだ。
欧州からの移民が持ってきたプロテスタント的な価値観である。これに、17世紀以降の西欧で産業革命に並行して育まれた哲学が組み込まれている。それはジョン・ロックの自由思想であり、ジェレミー・ベンサムの「最大多数のための最大幸福」という社会主義的思想であり、ジャック・ルソーの「個人と政府の間は契約関係」という権利思想であり、モンテスキューの独裁を防止するための三権分立思想であり、アダム・スミスの市場経済思想である。これら思想は18世紀の米国独立運動家たちが学習し、米国憲法という世界初の共和国憲法を作った際、意識的に組み込んだものである。
福沢諭吉が「文明論之概略」で、「アジアの悪友」から離れ、脱亜入欧でいこうと唱えてから約140年、時代は逆転して――植民地主義を内側から食い破り、その後中国も含めた東アジア経済体を形成するに力のあったのは日本なのであるが――、今や「財政赤字の欧州と軍事選好の米国という悪友」から離れて脱欧入亜で行くべき時代であるかに見える。福沢以来140年、戦後になると更に顕著に丸山真男などの日本のリベラル知識人が求めた西欧的価値観は、今や教養主義の産物として葬られている。だがそれは、ルネッサンス以来のヒューマニズムの思想であり、ドグマから人間を解放するものだ。経済発展の結果、自由と権利を獲得した日本人は(特に青年達は)、こうした価値観を教養としてではなく、血と肉としてもっと意識するべきだろう。
中国人は人種が同じだが
中国がいいか、米国がいいか。それは個人の好みの問題だ。だが、中国と同盟を結んだあげくどうなるか、米国と同盟を結んだら何が待っているかは十分吟味したあと、自分の好みに従うかどうかを決めなければならない。
中国で中国人と付き合っていると、無理がない。同じような顔をして、漢字と箸を使うという共通点があることは、大きな安心感を与える。やはり親戚なのだ。
だが人種が同じでも相争うことは、ヨーロッパでもある。そしてアカウンタビリティーや人間の権利尊重という点では、中国より欧米の方が日本に近い。中国人は競争が激しく、仲間でない者には礼を守らない。行列の横入りは普通だ。僕があるホテルの朝食でテーブルの脇に取り分けておいたバターが、パンを取るため目を離した3秒の間に消えていたように、中国では「無主物」の範囲が日本でよりはるかに広い。気を許すと遺産をすべて手に入れてしまう油断ならない親戚のようだ。
だから中国とは無用に対立する必要は毛頭ないし、互いに大いに商売すればいいのだが、警備会社としては米国の同盟体制というものに入っておくのが、安全に繁栄するためにはいちばんいいのではないか?
だが、僕も以上言ったことで完全に納得しているわけではない。アメリカ、または中国が好きだ嫌いだ、従属はいやだ、いや構わない的な感情論は置いて、これからも日本――「国家というのは我々の命を投げ出して守るべき至高のもの」と言うのは狂信を思わせて、僕は好きではない、それよりも日本語で仕事のできる空間の安全とルールを維持してくれる装置なのだと思う――を維持するためには何がいちばんいいのか、もう少し考えてみたい。 (完)
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中国GDP統計についての注: 「詳説 中国GDP統計――MPSからSNAへ」 許 憲春著(中国国家統計局副局長)は次の趣旨を述べている。
中国GDP統計の信頼性に関しては長い論争。疑問点は、①成長率がエネルギー消費量、失業率などと不整合、②成長率が過大推計ではないか、③数字が政策的に操作されているのではないか、④先進国と比較して公表時期が早すぎる、⑤省レベルの成長率が高すぎる、⑥小都市もGDPを公表している、など多岐にわたる。
そもそも中国の国民経済計算の概念と方法は、付加価値を基本とする先進国の国民勘定体系(SNA)とは根本的に異なっていた。旧社会主義国の計算方式である物的生産体系(MPS)は、生産の総額概念であって付加価値概念ではない。しかも定義的にサービスが除かれている。現在の中国のGDP統計は、MPSにSNAを接ぎ木したようなもの。その接合は完全ではなく未完の過渡期にある。中国のGDPが長期的に巨大化することは不可避。
統計の範囲が広がり、精度が高くなれば当然、規模は大きくなる。例えば、行政サービスや軍隊・警察、膨大な数の個人営業である。「みなし家賃」である帰属家賃を統計に算入することの影響も大きい(日本ではGDPの1割)。さらに、国有企業の内部取引としてGDPにカウントされなかった取引も市場で評価されるようになるからだ。一方、成長率は、生産性の低いサービス部門が統計に含まれることによって次第に鈍化していくだろう。
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コメント
べつに安来では、キリンビールを飲んで鼻くそほじくっています。